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読書って、なんだろう?

読書。この言葉は何を意味するのか。間にレ点を入れて“書を読む”と解釈することもできますし、そのまま“読み書き”することと解釈しても問題はなさそうです。

今回の記事では、私が考える読書の意義について述べていきたいと思います😊

なお、今回は3,000字におよぶ長文になってしまいました。お時間のない方は、ぜひ5.結論の部分だけでも読んでいただければさいわいです。


1.学校における読書教育

最近は、学校なんかでも読書週間とか朝読書とかいろいろな企画を立てて子供たちに読書を根付かせようとしていますよね。素晴らしい試みです。

ですが、わたしは否定的な見解を示してします。
読書というものは、面白くなければ続かないものです。あるいは何らかの目的が必要とされます。

少なくとも、わたしは自分の子供に対して読書を強制する意志はありません。あくまでも本人の自主性にゆだねるつもりです。

スマホ文化全盛の時代に、前時代的な紙の本による読書がどこまで有効性を保てるか?

正直なところ、わたしの中にその回答を持ち合わせてはいません。

読書における普遍性はもはや失われたものと言ってもいいでしょう。しかし、必要な人にとっては必要なんです。Al時代を生き抜く一つの手段として読書は有効かと思われます。

2.教養主義という建物はすでに廃墟となりぬるか?

学問には、大きくわけて2つあります。専門分野と教養分野です。前者については特に説明の必要はないと思います。簡単にいえば、何らかの専門家になるための知識です。

問題は教養分野です。大学における教養教育は、別名リベラル・アーツ主義とも呼ばれ、古典の素養や非実用的な学問の習得を目的とします。

ただし、残念ながら実用性ばかりを重視する時代となり、一般教養に関してほとんどの学生は見向きもしなくなりました。

特に哲学や数学などで形成される抽象概念について、最近では、かなり軽視されるようになりました。

残念なことではあります。しかし、抽象概念の持つ意義について、社会に対して理路整然と説明できるかと問われれば、その自信を一切持ち合わせておりません。

戦後の一時期は、人格形成を目的とする教養主義が流行したのですが、これも現代では完全にすたれ切ってしまいました。

そもそも、学問・道徳・芸術の習得で人格が形成されうるのか、という見解に対し、有効な答えが提示されなかったゆえの現象です。

教養主義に関して、例えて言うなら廃寺のようなものでしょうか?
かつては、信者さんや檀家さんの往来でにぎわいをみせたお寺さんが、今や誰も近寄らず、建物は朽ち果て、雑草に覆い尽くされているような姿態にあまりにも酷似しています。

3.三木清「読書と人生」を読む

あなたにとっていちばんの愛読書は何ですか?という質問があったとするならば、私はいちばんにこの本を上げることでしょう。この本は、読書の重要性・根本性についてこんこんと述べてあります。

この本は、いくつかのエッセイを集めたものですが、その中でも、「如何に読書すべきか」の一編を特に愛好しております。

読書の必要はただ一冊の本の人間にならないために、い換えれば、一面的な人間にならないために、存在するのである。単に自分自身の時代のみでなく、また過ぎ去った時代について、単に、自分自身の国のみでなく、また世界について、全体の生活と思想について正しい見通しを得るために、多く読まなければならぬ
(中略)
一般的に何が善い本かといえば、もちろん古典といわれるような書物である。古典は歴史の試煉しれんて生き残ったものであり、すでに価値の定まった本である。
(中略)
時代の感覚に触れるために、また今日こんにちの問題が何処どこにあるかを知るために、ひとは新刊書に接しなければならぬ。

三木清「如何に読書すべきか」

何を読むべきか、という問いに対し、まず古典をあげ、その古典を盛り立てるために新刊書も読まなくてはならない、と述べております。

古今東西の知識を吸収し、幅広い見解を持つ必要があるということです。

また、引用部分とは別の箇所では、専門知識と一般教養とは補完関係にあり、両方の知識を吸収すべきだとして指摘しております。

なるほどですね。専門知識(実学)ばかり身につけても了見の狭い人間になってしまうし、時代が移り変わるともに価値を失ってしまうわけです。

それに対して、一般教養(古典)は、長い歴史の中で安定した評価を獲得したものです。

古典知識を身につけることによって、時間という概念のもとで自分自身を客観視することが可能になるのです。過去・現在・未来という時間の流れのもとに自分をどのように定義づけるのか。ここが課題になってきます。

4.大学の存在意義

学問、といえば真っ先に大学を思い浮かべることでしょう。ただ、私にとって大学はあまり価値のあるものではありませんでした。

はっきり言ってしまえば、大学の講義は教授の独りよがりでしかありません。彼ら彼女らから、社会に介在する諸問題を、学問的立場から解決しようという意思はみられませんでした。

もちろん、就職の際に〇〇大学卒という肩書きは非常に役に立ちます。しかし、それだけです。大学が就職予備校と化した現状がそこにあります。

ただ、それすらも昨今あやしくなってきてますよね。大卒と高卒のサラリーマン・サラリーウーマンにどういった違いがあるのか。大学の意義がそこに表れてくるわけです。

そもそも教授の独りよがりの世界観をぶつけられて、どのような人格が形成されるというのでしょうか。

大学もまた、廃墟と化しつつあるのかもしれません。

5.結論

では、大学に価値が見出だせないとすれば、私たちはどのように教養を身につけましょうか?

私なりの結論。独学です。もちろん、独学にもいろんな弊害へいがいがありますが、それでもなお、独学という立場にしか学問を身につける場はないと思います。

では、どのように身につけるか。図書館に立て籠もることです。ただひたすらに本を読み続けます。これだけです。

かつて、日本仏教の総本山は比叡山延暦寺というくらい比叡山には権威がありました。しかし、鎌倉時代になってくるとそのシステムが形骸化し、社会に対しその存在意義を提示することが難しくなってきました。

そこに疑問点を持ったお坊さんたちは、独学で経典を読みまくり、ついには比叡山を飛び出して、一派を形成することになりました。いわゆる鎌倉新仏教です。
例えて言うなら、こんな感じでしょうか。

本題に戻ります。

読書により知識を累積るいせきするのです。

大学における単位を修得するための勉強よりはるかに結果を体感できます。

しかし、これだけでは、大学教授と同じ独りよがりになります。

では、どうするか?

1冊本を読むたびにアウトプットすることです。

さいわい、私たちにはnoteがあります。

みんなでそれぞれの知識や経験を共有し、人格を形成していくのです。学歴偏重社会を是正するためにも、積極的にnoteを活用するべきなのです。

このような場を与えてくれたnoteの運営さんには感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。

6.この記事をお読みいただいた皆さまへ

今回かなりな長文になりました。ここまでお読みいただいたことに感謝します。皆さまのリアクションはとっても励みになります。ぜひともフォロー・スキ・コメントなどで応援してくださいませ。よろしくお願いします🙇

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