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4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて

 お久しぶりです(そうでもないかな?)、今日は村上春樹の短編集『カンガルー日和』の中から、表題の短編(長いので略)について。

 僕とこの作品との出会いは、本当に偶然で、ただふらっと入った本屋でふらっと取った本の目次を見てこれだと思い、読んでみたという具合だ。そして僕はこの短編の題名を見て一瞬で、この話はきっと僕の気に入るだろうな、と思った。後から思えば、それは作中の”僕”が100パーセントの女の子に出会ったのと丁度同じようなことだ。それが”本”か、それとも”人”かという違いだけで、人生には往々としてそのような”一目惚れ”があることは皆さんも承知であろう。あるいは一目惚れとは少し違うのかもしれないけれど。

 さて僕はこの短編が本当に好きで(ある人へプレゼントしたくらいである)、そしてそれは前述したように、パッと見で好きなのだ。その他の特段のワケはない。ただ、こうしてnoteに文章にして書く以上、『パッと見て、好きなんですよね。』では面白みのかけらもないし、何よりそんなのでは僕がこの話を本当に好きかどうか、読者が判断しかねるではないか。それだけはどうしても避けたい。僕はこの話が本当に好きで、愛してやまないのだ。情熱を持ってYESと言いたい作品だ。だから徹底的に、箇条書きのようにして、その情熱を目に見える様に、羅列していきたい。


以下、ネタバレを含むので、作品を読んでから読みたまえ。


・100パーセントの女の子
 まず一つ目、”僕”にとっての100パーセントの女の子について、作中こう記されている。
『たいして綺麗な女の子ではない。素敵な服を着ているわけでもない。髪の後ろの方には寝ぐせがついたままだし、歳だっておそらくもう三十に近いはずだ』
ーーーー村上春樹  「カンガルー日和」講談社文庫 19ページより
 散々な言いようである(笑)。思わず(笑)をつけてしまうくらいには酷い言いようで、何ならもう不細工でダサいといってくれた方がスッキリするくらいだ。
 しかし、勘違いしてはいけないのは、不細工でダサいわけではないということだ(自分で言っておいて何だが)。”たいして綺麗ではない”し、”素敵な服をきているわけではない”というだけであって、それ以上も以下もないのだ。
 そして、これが物凄くいい。これ、というのは、「たいして可愛くもない女の子が、自分にとって100パーセントの相手である、というような運命(またはセンス)を持っている主人公の男の子」が、非常に良い。あるいはそんな状況を作り出せる作者村上春樹が、非常に良い。運命の相手なら、それはもう容姿端麗も容姿端麗、頭からつま先までどタイプである、という一つの(仮の)命題への、強烈なアンチテーゼ感を、さらっと、洗練された都会のビジネスビルディングの様に、出しているところが好きなのだ。だって思い出せてもいないのですよ、女の子の顔を。ただたいして美人ではなかったことだけ覚えてるという。いやぁ、素晴らしい。
 もちろん、逆も然りね。女の子側からも言える。”僕”の方だって、ハンサムじゃないに決まってる。

・科白が「昔々」で始まるところ
 ”僕”が女の子にどう声をかけるべきだったか、という場面において、その科白が「昔々」から始まる点、これもまた非常にすばらしい。作中の”僕”が女の子に声をかけるとすれば、それは俗語で言えばナンパになるのだろうが、ナンパに使うには勿体無いくらい素敵な出だしである(やはり”僕”は何もしなくて正解である)。だって、みんなわかっているでしょう。大抵の素敵で面白くて愉快なお話は、みな「昔々」から始まるのだ。桃太郎だってシンデレラだって白雪姫だって”Once upon a time…”と一行目にくるのは決まっているのだ。

・100パーセントの愛についての記述
文中でこう記されているところ
『100パーセント相手を求め、100パーセント相手から求められるということは、なんて素晴らしいことなのだろう』
ーーーー 村上春樹  「カンガルー日和」講談社文庫 24ページより
 全くもって、 absolutely literally 超絶に同意なのである。涙が出てきそうになる程素晴らしく真っ直ぐな言葉。本当に、それはそれは素晴らしいことであるよ。愛なんてものはありすぎて困ることはないのだ。うわあー、こういうこと言うたびに思い出す、村上春樹と小澤征爾の対談本『小澤征爾さんと、音楽について話をする』の中で、村上春樹はこう言う。
『・・・「良き音楽」は愛と同じように、いくらたくさんあっても、多すぎるということはないのだから』
ーーーー 村上春樹 小澤征爾 同上 新潮文庫 30ページより
 本当にそうだね。その通り。うんうんm。もう、そうだね。うん。
 せっかくこの本が出てきたことだし、ちょっと本題と脱線話をすると、この本、あのノーベル賞受賞作家、カズオ・イシグロの話が出てくるのだ。何でも、有名な彼(カズオ)の作品『Never let me go(私を離さないで)』という小説は、村上春樹がカズオ・イシグロに渡したCDから影響を受けているらしい。村上春樹が愛するジャズ・ピアニストの大西順子さんという方、彼女のCD「ビレッジ・バンガード2」に「ネヴァー・レット・ミー・ゴー」という曲が入っていて、村上がそれをカズオ・イシグロに渡したところ、カズオ・イシグロの次作小説にもその曲が出てきており(というより題名にすらなっていて)、作中で大事な役割を果たしている。村上春樹はもちろん驚いたらしい。
 ほう、僕の好きな小説「Never let me go」が、僕の好きな作家村上春樹とこのような関係を持っているとは。。。(ちなみに今、僕はこれを書きながらちゃんと大西順子のネヴァー・レット・ミー・ゴーを流している。こういうところは僕はいつも、ちゃっかりしているのだ)いやあーー、何だかコネクションがあって良いね。愛だね。ピース。
 ちなみにこの本、小澤征爾の情熱もちゃんと伝わってくるから面白いよ。

・二人がいったん別れてしまうところ
 さあ本題に戻って。作中、その「昔々」から始まる話の中で、ある少年と少女がばったり出会い、お互いに100パーセントだということがわかり、無事恋人同士になる。しかし二人はそのあっけな過ぎる出会いに、心の裡に微かな疑いの念を抱く。100パーセントがこんな簡単に実現しても良いのだろうか、と。そして二人はそれを確かめるために、一度別れて、再会を誓う(本当に互いに100パーセントであれば、たとえ別れても、もう一度出会うだろうし、その時は確信に変わるだろうという算段だ)。そう、別れてしまうのだ。ところが皆さんも大体わかるように、一度手放したものは、なかなか戻ってこない。運命ってやつは時に恐ろしくもある。二人は病に冒され、記憶喪失になる。我慢強い二人は、何とか努力して、社会復帰を果たすものの、長過ぎる時の経過には抗えず、二人は街で偶然すれ違うが、そこにはかつての光はない。
 いやあーーーーーーーーーー、本当に、「それって悲しい話」ですよね、、、、。。。。でもわかる。確かめたくなるんですよ、これは絶対に。二人が別れることは決まってることなんです。映画の結末みたいなものです、決まってて変えられないんです。タイタニックの最後はどうやったって変えられないんです、ジャック・ドーソンは、永遠に戻らないのです。どうやったって。
 パッと見て、すごい好きなものって、きっと本物なんですよ。100パーセントなのです。なのに疑ってしまうのです。その段階の簡単さ、大好きや完璧に至るまでの過程の容易さ、あるいは人生経験(自分への不信感)によるものなのかもしれない。自分の感性を信じることって、実際かなり難しいことなのです。それがわかるこのシーンがとんでもなく好きで、はい。とんでもなく好きなのです。

・細かいところ
 以下、細かいところで好きなところ。
 まずこの物語が、4月の朝という設定になっているのが良い。とても新鮮で、温かい気持ちになる。悲しい話なのに。カタルシスかな。。
 次、病で記憶を失った二人が何とか努力して社会復帰を果たした場面で、その努力してできるようになったことの描写が「地下鉄に乗れるようになった」「郵便局で速達を出したりできるようになった」なのが物凄く良い。気持ちの良い晴れた午後にふらふらしている野良猫のような愛おしさがあるではないか。すごいささやか、健気、健康的、軽井沢の朝食バイキングみたい。
 最後、ホテルのバーのカクテル。村上春樹の小説を読んでいる人ならわかると思うけど、彼の作品の中には結構出てくる。ホテルのバー。どっかの作品で主人公が「僕は実に都会(東京)での暇のつぶし方が上手い」って言ってバーでカクテルかウイスキーを飲んでいたけれど、まさにその通り。とても大人で、クラシック。良いのよ、ホテルのバーって。絶対的に良いの。村上春樹は分かってる。

 


 そんなこんなで語ってきましたが、どうだろう。良いよね、この短編。
 そしてもうすぐ4月がやってきますね。4月は僕の誕生月でもあります。でも僕はもう”100パーセントの女の子”と出会う必要はないのですよ、なんてね。ははは。



 


 


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