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ぼくと息子の命の戦い(後半まとめ)


27日は日◯病院で初の眼科受診だった。受診後の説明では、右に2箇所、左に1箇所の網膜内出血があるとのこと。このまま自然吸収されるから治療の必要はない、と説明された。7日とか30日とか期間はバラバラだったがそれぐらいで消えると言われていた眼底出血が2ヶ月経っても残っていることに多少の動揺はあったが、その話も虐待対策室や児相の嘘だったのかとさえ思えた。
『出血の大きさは小さくなっているのでしょうか?』
『紹介状もデータも来てないのでわかりませんが、現状ではそういうことです。』
『視力はどうですか?』
『わかりません!これ以上は何もないです。』
取りつく島もないって感じの女医さんだった。きっと私達が虐待親だと聞いていたのかもしれないが、それにしても嫌な対応だった。
『なんか、感じ悪かったな。』
『日◯病院だからって全て良いとは限らないね。』
『それにしても成◯病院の眼科からの資料が何も来ないのもやはり変だよな。』
『もう1ヶ月経っているのに、成育の眼科から何にも送られてないってあり得ないよね。』
ママと私は成◯病院への不満を口にした。

翌28日には脳外科受診、採血、9~10ヶ月間検診、歯科健診と目白押しの検査デー。
脳外科検診では、フェバノールという抗痙攣薬を飲んでいるが効き具合は良好。副作用が臓器に出ることがあるが、肝臓、心臓共に良好。薬の影響はないので安心を説明された。
やっと成育からCT画像が届いたのでそれを見ながらの術前術後の説明。脳の歪みも治っていて非常に良好だった。CTを何度もするとあまり良くないので31日にMRIを取ることとなった。
9~10ヶ月間検診では、成長曲線・運動機能面の説明があったが共に問題無し。
午後は麻酔で寝かされてレントゲン撮影。検査結果は6月4日に出るのでその時に説明があるそうだ。
他に、カルテ開示の正当性や親の知る権利の話など丁寧に詳しく説明してくれた。
結果、どの検査においてもヒロの状態は極めて良好だということだ。

30日は私とママが、児童相談所にて精神科医のカウンセリングを受ける日だ。児童相談所の薄暗い待合室でしばらく待つと、頭を掻きながら精神科医が現れた。
『◯◯(私)さん、、』
『あ、はい。』
『こちらへどうぞ。』
かなり緊張して挑んだ。下手な受け答えして精神病の病名をつけられてはたまらないと思っていたからだ。しかし面談では、3つの質問をされただけの20分で終わった。
『今の状況をどう思いますか?』
『思い当たるようなことは本当にないのですが、息子がこんなことになったのは現実で、今後このようなことが起こらないよう病院の先生や乳児院、児童相談所の方々に教えて頂きたいと思っています。』
答えている最中、精神科医は下を向きながら頷いている。ママにも同じ質問をした。そしてママが答えている途中何度か目だけが私の方をジロッと見る。答えに対する私の表情を伺っているようだ。
しばらく沈黙の後、精神科医のカウンセリングが終わった。これで何かわかるのだろうか、という感じの面談だった。
精神科医が出て行って15分程して福祉士の小村が入ってきた。私は小村に尋ねた。
『今後はどのようにしたらいいのですか?どういうプログラムで進んでいくのですか?』
『うーん、ご両親の面談もしましたしねぇ、、これと言ってすることは、、、』
と黙り込んだ。
『面会も安全面に気を付けて良い雰囲気で問題なくできていますし、、
まあ、今後については所内で検討します。また決まりましたらご連絡します。』
一時保護から施設入所になり面会も出来るようになった。ヒロも順調に回復している。しかし、調査や家庭指導は何ひとつ進んでいない。小村の言葉に、いつまで続くのだろうという絶望感を感じていた。

31日は日◯病院での脳外科受診だ。ヒロが麻酔で寝かされMRIと脳波測定を行った。そしてこの日、ヒロの下の歯がうっすら生えてきた。目に見えるヒロの成長を確認することが出来て心が踊った。

6月4日は脳波測定とMRI検査の結果が出る日だ。今までモヤモヤしていたものが今日で全部わかる。ドキドキしながら先生の話を聞いた。
脳波測定の結果、左右共に異常無し。痙攣やてんかんの兆候も無し。
脳外科MRIの結果、手術した右側は脳の圧迫も無く綺麗に回復。未手術の左側も出血は吸収され脳の圧迫も無い。左右のバランスも良い。血腫の袋はまだ残っていて、そこに血が溜まることも考えられるが、すっかり回復するとその袋は潰れてくっつき袋ではなくなる。そう問題でもないので次回のMRI検査は4ヶ月間後で良いでしょう、とのこと。
成◯病院からの画像と比較しての説明や薬やMRIのリスク説明もあり、非常に丁寧にお話頂いた。

そして全ての説明を聞き終えて、家族みんなが明るい笑顔になった。
『ヒロ、ビックリするくらい完治に近いね。』
『本当、良かったねぇ。』
『ヒロ君は本当強い子なんだね。』
ノンナはすぐにノンノにメールで連絡し、ヒロの検査結果に全く異常がなく病状が回復し完治に近いことを伝えた。するとノンノから「美味しいものでも食べさせてあげなさい。」と返信があった。息子の病状の良い結果に喜びながら、贅沢なお昼ご飯を楽しく食べたのは久しぶりのことだった。

息子の頭の怪我も順調に回復し、運動機能も同じ月齢の子よりも早いくらいに問題が無い。面談も家庭訪問も面会も家族関係にも何も問題が無いと児童相談所職員が言っている。なぜ帰ってこないのか。いや、なぜ今後の見通しも示されないのか。何をしたらいいかもわからず、家庭指導もされていない今、少し焦ってしまう。モヤモヤした日々が続いた。

私達は何か出来ることは無いか模索していた。その頃、児童相談所を追求する本を出版した医師がいた。そしてその医師と食事をする機会に恵まれた。私達の経緯を話すと、その医師の隣に座っていた女性が
『そんな話あるのですか?』
と、あまり知らないようだったので私が説明した。
『病院、警察、児相がタッグを組んで責任というラグビーボールを回しているようなもので、リサイクルマークの矢印のように、ぐるぐる回って虐待が認定される。もはや、虐待があったかどうかはどうでもいい話になって次々と児童が保護されていくんです。』
『うん、その通り。虐待製造装置だよ。』
その医師は口を開いた。続けて、
『右も左もダメ。マシなのは保守系議員だか国会議員はまず頼りにならない。まだ話が通じるのが地方議員だけど、それでも(子供奪還は)難しいね。』
『私達は、夫婦だけで頑張ろうとしています。』
『無理、無理、絶対無理!』
少しでも有益な情報があればと思っていたが、その医師からは『無理。』という言葉以外は無かった。

1週間後小村からか連絡があった。私達が今後の予定を聞いた答えだ。小村からは児相の会議で決まったことを連絡しますと言われた。
『6月7日からは病院敷地内の散歩と1階の広いプレイルームの使用を許可します。』
そういうことじゃないんだけどな、と思いながらも病院敷地内の散歩が出来ることに喜び、児相の会議に私達の議案を出してくれた小村さんに感謝した。

保護されてから2ヶ月。この頃になるともちろん焦りはあったが、ヒロの状態が良好なことで余裕も少し生まれてきた。
『なあ、ママ。福祉士の小村さんに色々言っても結局は児童相談所の上の方の人の会議で決まるじゃん。』
『ね、だから何もかも遅いんだよ。区役所の福祉士の家庭訪問がありますって言ってからもう1ヶ月になるし。』
『まあ、それもそうなんだけどさ、小村さんとかともっと仲良くしたほうがいいんじゃないかって思ってさ。』
『結構、友好的にやっているけどね。』
『結局、持ち帰って会議で良いことを言ってもらわなきゃいけないわけでしょ。だから、うーんなんていうのかなぁ、会議で言いやすい事をしてあげればいいんじゃないかって。』
『それもそうだね。』
『彼女も本当は子供が好きなんだと思うんだ。福祉士になったんだからさ。でも、児童相談所での仕事は子供とか関係なくてどっちかというと親との関わりじゃん。』
『うん、大変だろうね。攻撃的な親とかもいるしね。』
『小村さんにガンガン言っても嫌になっちゃうと思うよ。で、会議では良いこと言わないよね、そうなると。』
『結構いい人だったりしてね。』
『最初はなんか服装もテカテカしていたし、若いから親の気持ちなんかわからないんじゃないかって思ったりもしたけどさ、まあそれは今もあまり変わらないけど、でも彼女は彼女なりに辛いんじゃないかなと思うよ。』
『なんかやっていることは日程調整と会議に報告だけみたいな感じだしね。三枝(仮名)なんて承諾書にサインしたら全く出てこなくなったもんね。』
『施設に送るまでが三枝の役割だったのだろうな。でもその後は、子供を保護された親からの攻撃に耐えなきゃならないのは小村さんだしね。』
『だから最初の頃は全く笑顔とかなかったんだね。』
『もっと良い報告してもらうように小村さんと付き合わなきゃいけないよね。乳児院からも報告が行くから、今まで以上に家族の仲良さとか見せつけないとね。』
『そだね。』
『酷いことしてるのは児童相談所の上の方の人達とか組織とか仕組みとそういった所だよ。実際にはその上のもっと思想的な部分とかも関係してくるけど、結局は顔も見えない奴に牛耳られている感じじゃん。』
『腐ってるね。』
『そんな所に認めてもらう手段が、今のところは会議で良い報告してもらうことしかないような気がするんだ。』
『小村さんにね。』

それから私達は面会の時に、必要以上にヒロの体を支えたりして安全面に気を付けながら、時には乳児院の保育士さんと一緒に遊んだり、時には児童相談所の小村さんに抱っこしてもらったりしながら面会をした。
心の奥底では児童相談所の人間が息子に触るのさえも嫌だったが、目的の為にその気持ちを胸に閉まって顔にも出さないよう努めた。次第に小村さんも4月には見せなかったような笑顔を見せるようになり、大ヒロと会うたびにニコニコ笑いながら
『ヒロ君、本当可愛いですね~。』
と普通の会話をするようになっていった。
そして、ヒロが家に帰って来る時は複数の目で養育する事という条件に対して、私達の方から具体的な提案も出した。
『現在、店の夜の営業はアルバイトとママと私の3人で営業していますが、それだと家におばあちゃん1人になってしまいますので、アルバイトを2人にしてママも常に家に居られるようにします。』
『ママとおばあちゃんが2人で見るということですか?』
『はい、でもそれだと人件費的な問題も出てきて生活が苦しくなるので、ママに昼間はパートか正社員かは別にして外に働きに出てもらい、夜の増えた人件費分を稼いで貰おうと思います。』
『昼はどうするのですか?』
『昼はもうすでに営業時間を短くしたり定休日を作ったりしているので、ママが抜けても人を増やさなくて大丈夫な体制です。』
『おばあちゃんは毎日なのですか?』
『おばあちゃんは、たまにママのお母さんと交代で負担にならない様にします。』
こういう話は会議に持って行きやすいよな、とママと話した。本当なら必要のない昼の仕事をこのために探すと。

『わかりました。あと、昼の保育園ですが、緊急保育が出来るところを検討しますので。』
小村さんはそう言って話を終えた。

しかしその後1週間経っても何も連絡はなかった。「入院が長引いているだけ」と思おうと自分達に言い聞かせていた家族だが、リハビリも終了し、元気なヒロと面会するたびに心は揺れ動いていた。
ヒロも、面会の終わる時間が近くと察したかのように静かになり、帰ろうとすると服を掴んで泣くようになっていた。切ない。なんとかしなきゃ。時間だけが過ぎていく。
我慢できずに6月16日に小村さんに電話をかけた。
『あの、今後の見通しというか方向性とかどうなってますか?』
すると急遽明日の家庭訪問が決まった。催促するぐらいがいいのかなとも思ったりした。

18日の家庭訪問には小村さんと年配の福祉士の福山(仮名)さんが2人で来た。福山さんは初対面なので挨拶を交わした。
『お辛いでしょうけどね、でもすごく協力的にして下さってありがとうございます。』
『児童福祉法とかの法律も厚労相の手引きも、児童相談所のマニュアルも全部読みました。読んで理解して、もし自分が逆の立場で児童相談所の人間だったらどう行動するかって考えたんです。』
『まあ、全部お読みになったんですか。』
『その上で、もし仮に私達と同じ様な件が10件あっだとしたら、、もしそのうちの1件が本当に虐待をしていたら、、って考えたら安易な事は出来ないなと思ったんです。安易に家庭に戻した前例を、本当の虐待者に攻められそうですし。確実な何かがないとなかなか難しいことなのかなと。』
行政が前例主義でしか動かないことも理解していた。
『声を荒げて私達を攻撃する方もいらっしゃいますが、私達の立場を理解して頂いて本当にありがとうございます。』
『児相さんと一緒に協力しながら、ヒロが何故あんな事になったのかを考えようと思ってるのですが、今後の方向性とか予定とか全くわからないと不安になります。当初は毎日でも調査してほしいと言ったのですが、忙しいようですしなかなか進んでいきません。』
『今後の予定については、会議で決まりましたらすぐに連絡差し上げます。』

それから1週間後、ヒロの2回目の眼科検診で右目の出血の一つが完全に吸収されているとの診断に、私達夫婦は胸をなでおろした。そして前回の検診時には冷たくぶっきら棒に話していた女医さんが、驚くほど優しい口調で丁寧に説明してくれた。そうか、初回は私達の事を虐待親だという認識で対応してたのか、乳児院での対応などからそれは違うのかもと思ってくれたのだろう。そこへ児童相談所の小村さんが現れた。
『今後の予定が決まりましたのでお知らせします。』
そう言って私達と師長さんを連れて会議室に向かった。
『えっと、会議で今後の予定が決まりました。こちらの用紙に書いてあります。どうぞ。』
A4の紙を数枚渡された。そこにはカレンダーのように日にちがあり、そこに手書きでスケジュールが書いてある。
1日から30日まで両矢印が引かれ「週4日の面会交流」とあり、1日ごとに「院内、プレイルーム、院内散歩」と書かれていた。あれ、今までやってきたことと変わらないじゃないか、そう思った時にそれが6月の予定表だということに気が付いた。今後の予定と思っていたので気が急いたからだ。
そして2枚目を見て私は目を疑った。凄い、7月中の予定が全て書いてある!その7月の予定表を詳しく見る前に、すぐに三枚目の8月の予定表を見た。
『あ、あぁ、ママ、これ。』
『わぁ』
そこには8月5日から右向き矢印が書かれ「長期外泊(一時帰宅処置)」と書かれていた。
やっとここまで来た。じわっと涙が出てきた。ヒロが帰ってくる。やっと帰ってくる。
もう一度7月の予定表に戻り、じっくり見た。
7月1日「院外外出実施」
7月11日「自宅外出実施」
7月15、16日「外泊」(一泊二日)
7月24、25、26日「外泊」(二泊三日)
7月二十九日「保育園通園」
七月29~8月2日「外泊」(四泊五日)
そして8月5日~「長期外泊」(一時帰宅処置)となっている。
『ママ、、』
『うん、、』
自ら押さえつけていた心が暴れ出した。
『やったな。』
『うん、良かった。』
生涯何度あるかないかの喜びがこみ上げた。
『良かった。』
『うん、良かった。』
良かったしか言葉が出ない。
何処にあるかわからないゴールを目指し、いつまで続くかわからずに闇の中を進んできた。踏み外したら転げ落ちてしまう恐怖と戦いながら、やっと見つけた小さな光を信じて進んできた。坂の上に立った時、光は大きな朝陽となって輝きゴールまでの道を照らしていた。そんな感じだ。もう闇ではない。これから進む道の周りには千の花が咲いている。

『ありがとうございました。』
『本当にありがとうございました。』
私とママは小村さんに代わる代わるお礼を言った。
『一応の予定で変更がある可能性もあります。』

この間に問題があればまた振り出しに戻るみたいなことも言っていたが記憶にない。
しかし、ここまで来たのだ、道が見えているからといって油断したら転んでしまう。今まで以上に慎重に、浅い川も深く渡るように進まなくてはと気を引き締めた。

そして迎えた長期外泊の日。予定では8月5日だったが児相の都合で6日になった。ママと私とノンナの3人で日◯医療センターの乳児院にヒロを迎えに行った。師長さんや担当保育士の阿部さんに挨拶して何枚も記念写真を撮った。この師長さんがいたから今がある。そして阿部さんはヒロにとても優しく接してくれた。ヒロが阿部さんに抱きついていく姿を見ても、親代わりに愛情を注いでくれていたことがわかる。本当に感謝している。

我が家に帰ってきて家族みんなでお祝いをした。帰ってきてすぐにママがヒロを抱きしめた。ぎゅっと強く抱きしめた。ヒロは大きな目をキョトンとさせてからニコっと笑った。パパもおばあちゃんもおじいちゃんもチィもみんなで代わる代わるヒロを抱きしめた。これが普通なんだ。みんな一緒が普通なんだ。それがとてつもなく幸せなことなのだ。

ヒロの誕生日の8月9日には、1歳のお誕生日会を我が家ですることが出来た。5月の初節句にはヒロは家にいなかった。頂き物の陶器で作られた兜だけがひっそりと我が家の片隅に置かれていた。だから1歳の誕生日は必ず全員揃って我が家でお祝いするんだという思いでやってきた。一時保護されてから4ヶ月。間に合った。笑あり涙ありの感慨深いお誕生日会ができた。

ヒロが家に帰って来ると友人やお客さんが快気祝いパーティに集まってくれた。22席しかない我が店はその日60名を超える人の輪が出来た。そのうち半分の人は病気のことしか知らないが、そんなことはどうだっていい。この人たちが居てくれたから、話を聞いてくれたから人間性を保てたのだ、我慢できたのだ。そのパーティは一生忘れられないものとなった。

数日して児童相談所の小村さんが書類を持ってきた。「施設入所措置解除」し「児童福祉司の指導」に変更の書類だ。まだ完全に取り戻した訳じゃない。児童相談所の家庭訪問と区の福祉士の家庭訪問が月に2回~3回、それに精神科医の面談か数ヶ月に1回ある生活が続く。気分は良くなかったが苦ではない。

それは一年続いた。家庭訪問に来ても「元気ですね、問題ありませんね。」の繰り返し。一時保護されてから1回たりもと指導とか指摘とかいうたぐいのものはなかった。
児相の保育士さんに言われた言葉のベスト3は「今日も元気ですね。」「段階を追って進めていきます。」「本当に協力的でありがとうございます。」だ。家庭指導も再統合もあったもんじゃない。児童相談所と関わった中で言えるのは、まさに「保護」だけが目的の組織だと感じたことだ。

ヒロを連れて精神科医の面談が児童相談所で行われた。久しぶりの児童相談所はやはり苦手な雰囲気だ。今回は2階のプレイルームで行うということで階段を登る。途中からモワッと暑くなった。
『あ、節電でね、クーラーつけてないので今スイッチ入れますね。』
児相お抱えの精神科医はそう言ったが、2階には保護された子供達が居るはずなのにと疑問を持った。
階段を登ると目の前の部屋がプレイルームだった。そして廊下の奥には保護された子供達の部屋があると思われた。しかし、2階に上がっても全く子供達の声は聞こえてこない。遊んでいる声どころか泣いたり笑ったりする声が全く聞こえない。同じ子供を預かる施設なのに、乳児院とは別世界だった。
プレイルームに入ると8畳くらいの部屋に大きなホワイトボードがありテーブルと椅子がひとつ置いてあった。部屋の後ろの方には人形や楽器、電車などのおもちゃがある。しかしとてもここで子供が遊んでいるとは思えないような薄汚い白い壁に囲まれた部屋だ。そこで大輝とおもちゃで遊んでいるところを精神科医が観察する。何も言わずに淡々と時間が進む。精神科医は大輝と私達の様子をやはり目だけ動かしながら観察していた。
『はい、じゃあちょっと下に行ってきます。』
20分くらいして精神科医は出ていった。親子のふれあいの様子を報告しに行ったのだろう。しばらくして小村さんが入ってきた。
『ありがとうございました。今日はこれで終わりです。』
なんか拍子抜けするような精神科医の面談だった。

月に2回の家庭訪問を受けながらも、私達の生活は落ち着きを取り戻しつつあった。ヒロの成長も目覚ましたった。立って、歩いて、走って、踊って、どんどん成長していった。

ママが建築会社の事務員として働き出したのは、お店のお客さんであったその会社の社長さんの計らいだ。
その為保育園のお迎えと子供達の夜ご飯は私の役目となり、ランチの営業を終えると2箇所の保育園にお迎えに行き、買い物して夜ご飯を作る。そしておばあちゃんとバトンタッチしてお店の夜の営業に向かうのだが、その毎日はとても充実していた。
抱っこひもでヒロを抱え、自転車の後ろにチィを乗せて走る時は、本当に楽しいいおしゃべりタイムだ。私の目の前にいるヒロのおしゃべりは日に日に上達していった。後ろに乗ってるチィが歌を歌うと真似して大輝も歌い出す。みんなで歌を歌いながら保育園から帰ってくる。今では『パパ歌わないで!ヒロくん歌うの!』と口を塞がれる。そんな事をしながら大きな口を開けて笑う。
夜にはすっかり走り回れるようになったヒロがチィに体当たりする。チィが逃げ回ってるうちに踊りだしたりするとヒロも真似して踊り出す。キャーキャー言いながら狂ったように踊ったり歌ったり、楽しい毎日だ。

そして一時保護された日から1年5ヶ月18日、506日後の2014年9月17日に児童相談所から封書が届いた。2ヶ月前の7月に「あと1回の家庭訪問で終わりにしたいと思ってます。」1ヶ月前の電話では「8月27日の家庭訪問を最後に終わりたいと思います。最後はダラダラ伸びてしまってすいませんでした。」と言われてからしばらく経ってからの封書だ。
半年前から「もうそろそろ終わりにしたいと思います。」と何度も言われてたので、解除の書類を見るまでは本気で喜べないでいた。

『処置解除決定通知書』と書かれたその書類、解除の理由の欄には
『乳児院退所後、関係機関と連携しながら、生活状況、養育状況を、確認してきたが、特に問題は見られていない。
医師面接でも、親子関係に特に不適切なかかわりは見られないとの診断あり。』
当たり前だ。最初から何もない。でもこれで児童相談所との関わりが完全になくなった、
最後の最後もこんな書類1枚で。
「間違えでした!」とか、「ご迷惑かけて申し訳ありませんでした!」とか言えないものか。

506日前、命に関わる大手術を終えてICUで管に繋がれて眠るヒロと突然引き剥がされ、1ヶ月間面会も出来ず病状も聞かされず、どんなに長い1日1日を過ごしたか。
まだ脳浮腫や脳梗塞の可能性があり、後遺症や障害についても何も聞かされずに過ごした1ヶ月、どれだけの不安を抱えて過ごしたか。
虐待の疑いがあったとしてもそんなやり方が許されて良い訳がない。子供の怪我を心配している親がいるのだ。遠くからでもガラス越しにでも日々回復する我が子の姿を見させ、医師からも予後の説明を受けるのが当然ではあるまいか。
子供の怪我だけでも胸が張り裂ける思いで心配している親から、その怪我の原因の可能性のひとつでしかない「虐待の疑い」で子供を奪い取り、面会させず様子も伝えず、さらには長期に渡って保護し続けても怪我の原因も調べず、506日経った今「問題なし」という書類だけが届く。
子供や家族の幸せなど全く考えていないのが児童相談所だ。こんなやり方が許されるべきではない。

この1年は児相にあら探しされているようなものだった。再び連れて行かれたりしたらたまらない。だから子供達に1回たりとも怪我や病気・アザ・成長不良とかあってはならない生活で、冒険的な遊びどころが鉄棒などの軽い運動をさせるのも気が気じゃない。咳や熱が出ても病気に連れて行くのも嫌だった。病院は何かしら病名をつけ薬を処方する所だ。有らぬ病名をつけられてしまうのではということにまで敏感になった。
児童相談所からの呼び出しや家庭訪問で生活はグチャグチャになり、店の売上もどんどん下がり、それでも経済的理由も保護の対象になるから必死で踏ん張った。
疲れてママに愚痴ったりしても、娘が変な風に児相の家庭訪問時に言っちゃったらおかしな方向にいかないとも限らないので気をつけたり、色々な部分で緊張しながら生活してきた。だからまあ、ある意味少し楽になった。

当初は憎しみ・恨み・復讐という思いしかなかった児童相談所と成◯病院だったが、終わってみるとそんなことに力を使うより、今回のことでさらに深まった家族や両親や友人との絆を大事にして、もっと楽しく仲の良い家族にするために頑張って働こうという気持ちに支配されている。
こんな目にあって、初めて知った色々な事、もっと悲惨な家族の人、いろいろと考える所がある。しかし、この問題は当事者でなければ非常に分かりづらいし理解できない。そして様々な状況があるので、私の体験は児童相談所問題に於いて成功事例に成り得ないと思っている。同じことをしても同じ結果にならないばかりが真逆の結果をもたらすこともある。
しかし「虐待」という残忍なイメージとはかけ離れた「マルトリーメント=不適切な関わり」で「虐待認定」されてしまうことを広く世間に知らしめなければならない。子供を愛して止まない親でも、不注意で怪我をしただけで「虐待」となる。
病院や学校と連携し、「副作用を考えて子供の為にワクチンを打たなかった」ことは医療ネグレクトだ。学校の健康診断で平均より体格が小さいだけで、「家庭での栄養不足」となりこれもネグレクト、不登校になっても「教育をさせない」ネグレクトで「不適切な関わり」となり「虐待」と言われてしまう現実がある。誰でもが「虐待親」になり得る可能性を秘めた社会なのだ。

国会の法案の90%以上は官僚が書いたものだ。どこの政党も信用できないのは当たり前で、政治家は操り人形に過ぎない。
今の日本は選挙で選ばれていない官僚が実質的に国政を掌握している。高学歴エリートとテクノクラートが民主主義の手続きを踏むことなく国家を私物化し社会資本を独占しているのだ。
そして主にアメリカなどの諸外国からの要望書や圧力に沿って、お金を貢ぎ続けたり政策を決定しているのが実情だ。自由・民主主義のオブラートを破れば中身は外国とその仲間の官僚達に支配された社会主義の国だ。
そして児童相談所問題もその中にある。巧妙に弱者から富や子供が奪われるような法案が決定されている。
子供を奪われた親は大きな権力と法律の前に、泣きながら我慢するしか子供を奪還できる策はほとんどない。理不尽な親子分離を進める行政に対して、無力感と怒りの感情しか湧いてこない。
しかし子供の時に自分を愛してくれた人に抱かれていた時の事を思い出し、自分の愛する人を必死に守ろうとする人間の原点の本能に沿って動けば、何かに気づくはずだ。頭で考えるのではなく感じる事が出来るかどうか。我が子を抱きしめる。その時、親も子も無償の愛を感じる事が出来るのだろう。何の為に生きて何の為に行動するのか。その気持ちを持った人が増えていけば未来の社会にも多少の希望はあるのではないか。
さあ、今日も我が子を抱きしめよう。抱きしめる事で私は抱きしめられていることに気づくのだ。

最後に。
私は今回の件でこれまでにない苦しみと我慢を味わった。しかしその引き換えに「心の物差し」と「家族の愛」を手に入れた、いや思い出させてくれた。その「物差し」はとても短く、その「家族の愛」はとてつもなく大きい。人はたまに欲深く、持っている「物差し」で測れないほどの幸せを望む。そして心の「物差し」は何度も何度も長く測れるものに変えられて常に満たされなくなり幸せを感じなくなっていく。小さな「物差し」を手に入れた私とママは、ただ子供達がここにいるだけで幸せに満たされている。ただ抱きしめるだけが一番の幸せを感じる時だ。そして、ただ何事もなく穏やかに今日の日が終わることだけを願っている。

ヒロ、チィ
あなた達が大きなって
いつしか親の事を
疎ましく思う事があるでしょう
あなた達が大きくなって
親に言えない事も出てくるでしょう
あなた達が大きくなって
絶望の淵に立たされ
自暴自棄になる時もあるでしょう
私達もありました
誰にも言えずに悩んだ日々も、
あらゆる悪い誘惑も、
訳も分からず流されて
抜け出せなくなった事も、
自分を捨てようとしたことさえも、
なんとか心を保とうともがいても
激しい感情に揺さぶられました。

でもあなた達がいたから救われた。
まだ本能だけで生きている
小さいあなた達に救われました。
顔を見ればハイハイで近いてくる姿に
何も考えずに笑う事が出来ました。
ママの隣を取り合って寝るあなた達に
無条件の愛を貰いました
抱っこをせがむあなた達が見て
もっと強くならなきゃと思いました。

絶望の淵から希望の光を見出す時
そこにはまだ小さなあなた達が
与えてくれる愛がありました。
ただあなた達がここにいるだけで
幸せを与えてくれました。
そしてあなた達の愛で救われた私達も
あなた達を心の底から愛しています。
そしてこれから先もずっとずっと
いつまでも愛し続けることでしょう。

躓いたり転んだりした時は
大きく息を吸って周りを見て下さい。
あなた達を愛する人が
たくさんいることに気づくでしょう。
そして大事なものが見つかるはずです
そして希望の光が見つかるでしょう。
辛い時は愛する人の胸で泣きなさい。
嬉しい時も愛する人の胸で泣きなさい。
誰かを愛し愛されることは
大きな愛の魂となって
あなた達を救ってくれるでしょう。
無償の愛に包まれる時
とても大きな幸せを感じるでしょう。
そしてあなた達を良い道へと
導いてくれるのです。
いつかこの日記を読み返し
あなた達が私達を愛していたこと、
私達があなた達を愛していたこと、
思い出して下さい。
あなた達の未来に
希望の光が大きく輝き、
千もの幸せの花が咲くこと、
それが私達の幸せなのです。

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