「昭和より令和のほうが意地悪」内田樹【気になった記事のメモ】(34)

※5/22(水)10.17配信プレジデントオンライン

○「1960年代の初めから90年代の半ばくらいまでの日本に『勢い』があった時代には、若者にも『チャンスを与える』機会が多かった。一方、いまの日本では若い人たちに『屈辱感を味わわせる』ことが優先されている」

○若い人にどれくらい社会的能力があるのかを「査定」するということはいつの時代だってやってきたはずですけれども、「査定」の目的がいつの間にか「チャンスを与える」ことではなく、「屈辱感を与える」ことになってきている。

○日本人は「意地悪」になってしまった

 政治家の記者会見。若い記者たちの的外れな質問に、老練な政治家ならそれを「適切な問い」の形になるように教えてあげてもいい。「あなたが訊きたいのはこういうことでしょ?」と言い換えてあげてもいい。それで記者が成長するなら、日本の政治文化もそれだけ豊かで厚みのあるものになる。
いまはまるで違う。記者に対して「お前がどれだけ無能であるかを思い知らせてやる」と攻撃的な政治家ばかり。

わずかな誤りの揚げ足、記者が知るはずもないトリビアな質問をして、記者が絶句すると、「こんなことも知らない人間にこのトピックを語る資格はない」と追い込む。

そういう「意地悪」が作法として定着した。

そういうふうにして記者に屈辱感を与えて、黙らせることができる政治家が「強い政治家」だと評価されている。

あらゆる組織でこの作法が蔓延している。企業、学校、メディア。

どうして「こんなこと」になってしまったのでしょう。

若い人たちに勇気がないと責める前に、若い人たちに「非力なんだから屈辱感を味わって当然だ」という「意地悪」な態度を向けるこの社会の力ある人たちのマナーが問題。

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