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殺人は犯罪か.....それ以前に

この世の中は,何が正しくて,何が間違いなのかと思索していたとき,真言宗の教本を通して,十善戒というものに出会いました。

不殺生(ふせっしょう) 殺してはいけない
不偸盗(ふちゅうとう) 盗んではいけない
不邪淫(ふじゃいん) 不倫をしてはいけない
不妄語(ふもうご) でたらめや,でまかせを言ってはいけない
不綺語(ふきご) 綺麗ごとを言ってはいけない
不悪口(ふあっく) 悪口や陰口を言ってはいけない
不両舌(ふりょうぜつ) 二枚舌で他人を傷つけたり,両者を戦わせたりしてはいけない
不慳貪(ふけんどん) 自分の持ち物に執着してはいけない(他人にも施しを与えよ)
不瞋恚(ふしんに) 自分の気持ちに反するものに対して激しく怒ってはいけない
不邪見(ふじゃけん) 間違った考えや,因果の道理を無視した考え方をしてはいけない

キリスト教の十戒をご存じのかたは似ていると思われたかもしれません。ただ,この十善戒には宗教色がなく,一般的な生活を送るうえでの戒めとして,すべて参考になると感じました。

そこで今回は,まず一つ目の「不殺生」について考えてみます。

殺人が正しくないことは誰もが同意するでしょう。特に殺意があって人を殺した場合は,法の裁きによって死刑か,それ相当の重い罪が科せられます。
しかし,殺意がなければ重罪にはならないかもしれません。なぜ,殺意がなければ人を殺してしまっても許されるのでしょうか。ただし,それを許すか否かの判断は意見が分かれるところかもしれません。

殺意がないというのは,どのような場合でしょうか。
正当防衛で殺してしまったという場合があります。殺気を感じたので怖くなって抵抗した結果,相手を殺してしまった。これは真に正当防衛であり法は無罪を言い渡すでしょう。でも,もし「殺される前に殺してしまえ」と考えたとしたら,それは殺意にはならないのでしょうか。

年老いた人が車を運転していて人を跳ねて殺してしまった場合はどうでしょう。老化のため咄嗟の行動が伴わず,結果的に殺してしまった。そこに殺意はないでしょう。しかし「年老いているのに運転した」という行為に責任はないのでしょうか。「お酒を飲んでいるのに運転した」という行為とはまったく違う行為なのでしょうか。自制という意味では同じような気がします。

精神状態が不安定な人が誤って人を殺してしまったという場合もあります。精神病者は「責任能力の欠如」ということで罪を問われないことがあります。ただ,精神病者かどうかの判断が難しいです。精神状態が普通ではないことを本人がわかっているのであれば精神病者とは言えません。また,精神病者であることを客観的に見分ける医学的根拠はありません。専門家の知識や,うそ発見器などの技術を駆使したとしても,人の精神行動を正確に理解することは未だ困難です。だから,精神状態が異常な人は罪に問わないという考え方は公平性に欠けているように思います。

他にも殺意を伴わずに人を殺してしまったというケースはあるかもしれません。しかし,いずれにせよ殺人は大きな犠牲と悲痛を伴います。殺意がなくても,殺された人は戻って来ない。もし,その人に家族がいたら,その残された人は途方に暮れてしまう。その人のことを考えるといたたまれない気持ちになります。

「不殺生」は,有罪か無罪かに関わらず,人を死に追いやるような原因を作ってしまうこと自体を避けるべきであり,日ごろの振舞いに気を付けておくことも含めた戒めであると理解しました。

ご意見があれば是非お聞かせください。大歓迎です。よろしくお願いいたします。

追記:
真言宗を空海が布教したのは806年ということなので平安初期です。当時の「殺人」と現代の「殺人」の意味は大きく違ったことでしょう。
現代社会における私なりの「不殺生」の解釈としてお読みくだされば幸いです。

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