見出し画像

まなびのつくり手として私たちはどうあるか。

2022年12月・20223年8月・2023年12月
北海道でまなびのつくり手として場を作った。

過去2回とも1人帰路に着く空港構内で訳も分からず涙が溢れて人目をはばからずに号泣していた。感情がぐわんぐわんと揺れ動かされた。悔しさや自分の無力さを痛切に感じた。
ただ、今回は凄く爽やかに自分の中で終われた。楽しかった。

思うに私は誰かに何か自分の思いを伝えることをあまりしたくなくて
それは押しつけがましい人になりたくないとか伝えて受け取ってもらえなかった時の怖さから逃げて自分を犠牲にしたくなかったのかもしれない。
よく言えば他者を尊重している悪く言えば一定距離を取っているとも取れる。そもそも人に何かを伝える(指摘する)時には頭の片隅から私に人を指摘する資格はあるのか?という声が聞こえてくる。自分を棚に上げて人にとやかく言う人が嫌いだからこそ自分がそうなっていないか不安になる。じゃあ自己研鑽を怠らず人に厳しくそれ以上に自分に厳しくすれば良いのでは?となるかもしれないけどそれはそれで自分への負荷が大きくて面倒くさいと感じる。

簡単な話、"それ違うと思います。"より"それいいと思います。"の方が遥かに楽で簡単だ。"違う"は自分が何に違うと感じたのか、じゃあどうしたらいいと思うのかまで考えて相手に疎まれるかもしれないリスクを負って伝えなけらばならない。そこまでしてでも自分の意見を伝えるという確かなる意思、そして自分の発言に責任を持つことが要求される。共感して話を聞いてる方がよっぽど楽だ。そして人は誰しも話を聞いて欲しいと(自分含め)思っているので傾聴をして疎まれることはまずない。けれどもそれだとただ居心地がいいだけで終わる。良質な問い=いい質問ではない。


夜の時間、みんなの話を聞きながらスマホに残したメモ

今回、場を通して出てきたキーワードが"揺さぶる"というもの。
ただ、楽しいだけじゃない。向き合っている生徒を相手を揺さぶることが出来て初めて私たちがやる意味がある。
そして、自分の中に仮説を持って初めて相手を揺さぶれる。返って来た時に返せる。そして、同じ言葉であったとしても誰に言われるかで受け取り方も変わるのだろうな。憧れの人からの言葉はやっぱり響くもの。

そう思うと私が3回も学び場に行っている理由も"揺さぶられている"からなのかもしれないと気が付いた。
何か自分の人間としての器を試されているような、

1人の人間として向き合わなければならない
正解のない問いに対して向き合わなければならない
何度も何度も向き合わなければならない

これらは決して楽なことじゃないけど
そうして向き合うことで自分の中の変化を感じたり
1人じゃなくてみんなで向き合うことでチームの一体感を感じたり
普段大学に行っているだけじゃ決して感じることのできない自分の気持ちや変化を感じることができる。
揺さぶると同時に揺さぶられていたのだなと。

"大きな宿題を貰った気持ちです。"勇気を持って自分が伝えたことでそんな風に返ってくることがある。
「よっしー、バイバイ!」と爽やかに帰って行く姿がある。
悩みながらも咀嚼して自分の中に落とし込む姿がある。
居心地が悪そうに、でも自分の言葉で伝えてくれる姿がある。

来てよかったな、シンプルにそう思った。

常にそうである必要はないと思うけど、
愛があるからこその厳しさを
本気で向き合っているからこその勇気を
持てる人でありたいなあとしみじみ。

1年の締めくくりとなるようなとっても良い時間でした。
最後に思い出の写真たちも一緒に!

宿泊していた宿から朝見える景色


ふみか料理担当大臣の激うま締めうどん


"星を見に行こう"と言える人が居るって幸せだねと言いながら道路に寝っ転がる


上士幌前半‐完‐







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?