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それがそもそもの切っ掛けだった

 このテーマの記事も、そろそろ終わりに近づき、ひととおり書き留めておきたいことは書いてきたな、、、と思ったところで、今頃?というタイミングで、そもそもの切っ掛けになった出来事があったことを思い出した。

 その年の春、末息子が進学で家を出た。長きにわたる子育て家族の終了だった。ここまで過ごしてこられたことへの感謝と安堵にしばらくは浸っていたけれど、やはりこの生活形態の変化に戸惑っていたのは事実だった。

 その息子が夏休みに帰省してきたとき、言った。

「自分がいなくなって、この家がこれからお年寄りの家になることが寂しい。」

 色んな意味が込められていると思うその言葉に胸の奥が熱くなった。
子育てしていると、時々こんなふうに子供の言葉に射貫かれることがある。おそらく言った本人はたいして考えてもおらず、とうに忘れてしまっているのだろうけれど。

 さらに、息子が続けた。「でもさ、平均寿命までまだ30年あるよね。今生まれた赤ちゃんが30年したら、すげー大人になってんじゃんって思ったら、まだまだ今から始められることある・・・」みたいなことを言っていた。

 この時、すぐに、ピカ!っと思い立ったのではないが、
きっとこの言葉が私に、「先を見ること」を意識づけたのだと思う。

 大学に入ってから「家族と暮らしの変化」という内容の講義で、100年前(大正時代)からの家族や個人のライフサイクル(ライフコース)の変化を統計的な資料から分析した。1920年では61歳までの生涯で計算されていたのが軽く衝撃的だったが・・・それはおいといて・・・

 現代では家族の形成期から終了期まで25年、そこから10年間ほどの空白期間があり、その後に始まる老齢期が25年という概算だった。この10年間の空白期間は子育て終了から仕事の定年を迎えるまでの期間として、現代社会において新しく出現した、いまだ名もなき期間である。この期間をどう過ごすかが、その後長く続く老齢期の過ごし方に大きく影響することを知った。

 そして、この時期の始まりを自分は大学生として過ごすことができたのだと知ったとき、心の中で「やった!」とガッツポーズした。

 さて、そんな有意義な3年半を過ごしたはずなのだが、俗物の自分は今、レポートもない、試験もない、追われるものは何もな~い、という日々の快感にどっぷりと浸かってしまっている。そうなってくると諸物全般に関心が薄れ、好奇心が湧くこともなく、逆に自分の身体の不具合にばかり鋭敏になり、いつもどこかが痛む気がする。つまりこれが、息子の言うところの「お年寄り」ではないか!

 今、これを書いて、もう一度、あの時の息子の言葉を思い出してよかった。あの時に自分に湧き出た感情を思い出してよかった。
 いかん! いかん!
 時々このページに立ち返り、だらりとのびて重力と共に垂れ下がりたくなる気持ちと身体に渇を入れようと思う。


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