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38.「民芸喫茶山稜にて(その3)」

「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」
第1話「彼方の記憶」松本編

【今回の登場人物】
薬師太郎  認知症の当事者
薬師淳子  太郎の娘
谷川まさみ 太郎の同級生 喫茶山稜の主
立山麻里  白駒池居宅の管理者


認知症の人ではなく
ひとりの人として…

  38.「民芸喫茶山稜にて(その3)」

 「父にそんなことがあったんですか… ちっとも知らなかった。」
 淳子の瞳にうっすらと涙が浮かんでいた。
 「きっと太郎さんの心の中に封印してしまった記憶なんでしょうね。」
 谷川まさみはつぶやいた。
 淳子は、父の部屋の書棚の片隅にあった恋生岳遭難報告書のことを思いだしていた。帰ってからもう一度読み返さなければならないと思ったし、山に連れて行ってもらったときに、ちょっとでも雲行きが怪しくなったら下山した理由がわかった。
 「あなたのお父様にはそんな辛い青春の時があったの。子どもであっても意外と親のことを知らないものなのよね。まぁ話せなかった心に封印された記憶だったから。この山稜は、お父様にとって楽しい思い出と辛い思い出が一杯詰まった場所なのね。あれ以来、太郎さんはここに来ることはなかったし… 」
 まさみはしみじみと語った。
 「でも、今はあなたという素晴らしいお嬢さんがいて、あなたのお母様は、太郎さんの心を癒してくれた人だと思うの。太郎さんはきっと幸せな人生を送ったのだと思います。それにもう50年も前の話だし。」
 そう言ったまさみはうっすらと笑顔を浮かべた。

 立山麻里はあまりにも壮絶な薬師太郎の青春時代の話を聴いて、正直心が動揺していた。
 ケアマネジャーとしての立場で言うと、どれだけ自分たちが利用者のほんの一部分しか見ていないのだという衝撃を受けるほどの話だった。
 認知症があり、家族を困らせる薬師太郎という面だけを見て、その人の全てと判断してしまっていたのではないかと、強く感じたのだった。
 利用者のことをわかったつもりで、ちっともわかっていない自分がいるのだと、衝撃的な太郎の話だった。
 認知症状ばかりを見て、その人自身の生きてきた軌跡を見ることも敬意を示すことも、これまではやってこなかったのではないかと麻里は自らを振り返った。
 今回の話は、娘も知らない話ではあったが、認知症の薬師太郎ではなく、ひとりの人として薬師太郎を見ることができたという感慨深いものを麻里は感じた。

 谷川まさみは一呼吸置き、淳子に聞いてきた。
 「淳子さん、お母様は来られてないのですね? 」
 「はい、母にはゆっくりしてもらおうと思って家で留守番してもらってます。」
 「そう… 」
 まさみは少し考えてから、笑みを浮かべて淳子に言った。
 「淳子さん、お父様が50年もの間背負っていた心の重荷を軽くしてあげましょうか。明日の朝、宿を出る前に太郎さんを連れてもう一度ここへ来てくれますか? 」
 淳子は何だろう? と思いながら、明日は上高地へ入るだけだったので父を連れて来れると思った。
 「はい、わかりました。」
 淳子は何だかわからないなにかを期待して返事した。

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