37.「薬師太郎の青春(その5)」
「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」
第1話「彼方の記憶」松本編
【今回の登場人物】
薬師太郎 蓼科明子と付きあっていたが…
蓼科明男 明子の弟 高校生 落雷にあい…
蓼科明子 明男の姉 蓼科病院長の娘 医学生
谷川まさみ 明子の友人。喫茶山稜で働いている
悲愴…
エルガー「チェロ協奏曲」イントロダクション
37.「薬師太郎の青春(その5)」
その後、遭難者の葬儀が終わるまでの間のことを太郎はよく覚えていないようだった。しかしまさみはしっかりと見つめていた。
山から降ろされた明男の遺体に付き添っていた太郎に、明子は泣き叫んで声を荒げた。
「太郎さんがいてなんで! なんで明男を守ってくれなかったの!? 」
明子は太郎を睨みつけ、罵った。
そして明男に付き添い、家に戻っていった。
まさみには、家の中で激しく泣きじゃくる明子の声が聞こえていた。
太郎は明子の家の前で唖然と立ちすくむだけだった。
集団登山は、3名の死者、2名の重傷者を出すという悲惨な結果になってしまった。
太郎は自分を責めた。山想小屋に着いた時には天候の感触の悪さを感じてはいた。しかし、上空は青空で、何とか間に合うだろうという思いもあった。
しかし、血気盛んに山頂を目指していった生徒たちを、あの時止めておけば、こんなことにならなかったのだと、太郎は自分を責めた。
明男を死なせてしまったのは自分のせいなのだと。
明男の告別式、太郎は参列させてもらえなかった。明子の父が山に誘った張本人ということで太郎を寄せ付けなかったのだ。
それから数日、太郎は松本城の堀の近くにあるベンチで雨が降ろうと、風が吹こうと動かなかった。
見かねたまさみが太郎を喫茶山稜まで連れ帰った。
その間、一切明子からは連絡がなかったし、太郎もとらなかった。
太郎は連絡を取ること自体気が重く取れなかったのだ。
そしてその日が訪れた。
太郎にとってはもちろんだが、同席していた谷川まさみにとってもつらい日となった。
初七日を済ませた数日後、明子が山稜にいた太郎を訪ねてきた。
明子はやつれ切っていた。
後でまさみが聞いた話によると、ほとんど食事もせず、連日泣きっぱなしだったという。
明子はぼんやりとした表情で太郎を見つめていたが、その表情は怒りと哀しさが入り混じったものに変わっていった。
「私、山を好きだったと思ったけど、弟の命を奪った山は見たくもないです。山の恐ろしさをよく知っている太郎さんが、どうして弟を守ってくれなかったのですか? 」
突き刺すような明子の言葉に、太郎は顔を上げることもできなかった。
「太郎さんと会うと弟のことを思い出してしまうので、太郎さんとはもう会いたくはありません。」
明子は、それだけ言うと、立ち上がった。
その表情は悲愴感にあふれていた。
「さよなら… 」
一言そう言うと、明子は山稜から出ていった。
太郎は何も言うことが出来ず、ただただうなだれていた。
明子に声を掛けることもできなかった。
太郎は、明男を死なせてしまったことを、明子に何度も何度も謝りたかったのだが、ついに言えなかったのだ。
明子が去った後、太郎はずっとしくしくと泣いていたのだった。
一部始終を見ていたまさみも泣いていた。
この時山稜に流れていたエルガーの「チェロ協奏曲」は、まさみにとって生涯忘れられぬ旋律になった。