特別な何か

 カタカタ。カタカタ。今日は水曜日、現在時刻、午前11時40分。4時間目の授業が始まって約5分、きっと今頃、クラスのみんなは、数学の問題演習に頭を抱えているに違いない。
 そんなことを呑気に言えるのは、僕が家にいるからだ。普通なら学校へ行かなければならない日に、ひとり、パソコンに向かっているからだ。パソコンに表示されているWordアプリ。僕の親友だ。そこに僕のありったけの想いを叩き込んでいく。手書きもいいのかもしれないけれど、僕はパソコン派。音楽を聴きながら、テンポよく文字を打てるからだ。今日も好きなアイドルアニメの曲を聴き、やはり神曲だ、と思いながら、親友の目を見つめる。

 僕が学校に通うのが難しくなったのは、高校2年生の半ばごろ。修学旅行が終わり、学校行事がひと段落した、そんな時期だった。
 これ、といった理由はないが、教室に足を踏み入れようとすると、逃げたくなる衝動に襲われることが多くなった。教室の目の前で泣き出すこともあった。高校生になって初めての混沌とした感情に、僕は戸惑いを覚えた。今まで何があってもやり遂げてきた週末課題や普段の勉強ですら、手につかなくなってしまった。それが僕にとって、人生最大の挫折、だったと思う。
 事実、3年生になった今も、勉強には手をつけられていない。少し、久しぶりにノートと教材に向かって睨めっこしても、いい時で50分程度しか、持たない。みんなは授業を50分7時間受けている。それなのに、僕は。
 考え出したら、キリがない。自己嫌悪にのめり込むだけだし、ただただ吐き気を催すだけだ。それなら、親友のWordアプリと一緒に、想いを綴っている方が、僕にとっては有意義だ。
 そうやって親友との心の対話をしているうちに、パートに出ていた母親も、学校が終わった妹と弟も、仕事で疲れ切った父親も帰宅し、あっけなく夜になった。親友は疲れてしまったようで、体が熱くなっていた。休ませなければならない、そう思って僕はようやく、パソコンをシャットダウンした。
 ピロリン。スマホのLINEの通知が鳴る。今年の文化祭のクラス企画についての説明だった。3年生になってほとんど学校に行っていない僕には、聞くに耐えない話だった。

「彩世〜今日は学校、どうする?」
 珍しく妹と弟と同じ時間に起床した僕に、母親は尋ねてきた。ダブルワークの母親は、平日は基本、毎日仕事だ。それなのに弱みを一切見せず、忙しい合間に、僕を送迎してくれるのだ。いつも学校に電話をしているため、もう名前パスができるようになった、と以前笑って話していた。
 今週はまだ1度も、学校に行っていない。今日は木曜日。特に洒落た行事もない日。パソコンにひたすら向かって文章を綴ろうかとも思ったが、たまに運動のために、と僕は、「学校行く」と母親に伝えた。母親はわかった、と言い、学校に電話しようとしていた手を止めた。
 僕は学校に行っても、基本的に保健室で休んでいることが多い。はたからみたら、サボり魔だ。保健室を利用しに来る生徒からは、そう見られているだろう。何せ、他の生徒は1時間しか休養できないのに、僕は何時間も居座っているからだ。
「彩世くん、次の時間はどうする?」
 保健の先生が各クラスの時間割表を確認しながら言う。この言葉を聞くたび、僕はふと思う。本来授業を受ける場である学校で、次授業へ行くのか、と問われている僕は、なんだか惨めだ、と。
 『普通』なことが僕にはできない、と。
 3年生になってからのクラスは、本当に馴染めていない。ジグソーパズルのように、クラス全員がぴったりとはまれればいいのだが、そこにはまれない人が、どうしても出てきてしまう。おそらく、現在のクラスの中で、僕ははまれない存在だ。
 授業に行かなければ、この学校では卒業できない。そう思うと、少しは心構えが変わってくる。しかし、一歩が踏み出せない。誰かにいじめられるとか、悪いことをされるとか、そういうわけではないのに。
「彩世くん、先生も一緒に行こうか?」
 保健の先生にそう言われた僕。たしか、次の授業は、現代文だったはず。誰とも話さず、先生の話を聞いているだけで済むし、ひとりで教室まで行くのは気が重いので、先生の言葉に甘えることにした。

 まだ休み時間であるため、クラスは騒々しかった。男子はクラスの『陽キャ』部類の人の机に群がり、女子は細かくグループに分かれている。ひとりでいる、そんな人はいない。
 あの人たち、とことん苦労して生きるんだろうな。人間関係とか、グループとかのしがらみに囚われて生きるんだろうな。そんなひねくれた考えが、頭に浮かんでしまった。
 だがそれと同時に、眩しさもあった。クラスメイトたちが何を話しているのかはわからないけれど、泣いたり、嫌そうな顔をしている人が見当たらないことから、楽しい話題で話しているのだろう。
 ああいうことが、『普通』にできたら。僕だって、少しは心に光が当たったかもしれないのに。
 苦労して生きていきそうだ、と感じつつ、そのような感情が芽生えていることが、なんだか腑に落ちなかった。
 キーン。
 その時、何かが、脳内で響いた。音源は、おそらく僕の中。先程まで普通に稼働していた頭が、痛い。慌てて両手で押さえても、キーンという音は次第に大きくなっていく。同時に体に震えも出始めた。足がガクガク震え、頭を抑える両手にも震えがうつってきてしまった。

『オマエハ、ココニイテハイケナイ』
 そう、僕の中の僕が言った。

 倒れそうになる体をなんとか力で食い止め、僕はなんとか冷静を保とうとしながら、先生に言った。
「帰ります。帰らせてください」

 普通のことが、できない。
 僕は、ここにいてはいけない。
 ふう、とため息をつき、落ち着いてきたのは家で昼食を食べてからだった。パソコンの電源を入れ、親友のWordアプリを開く。
『おかえり、彩世』
 そう、親友は言っているように聞こえた。直接声では聞こえなかったけれど、心の中にじわじわと、温かい何かが広がっていった。
 キーボードを叩き、今日感じた気持ちをひたすらに打ち込んでいく。言葉では表しにくいものであるはずなのに、なぜかすぐに、打ち込むことができた。
 僕には、みんなが普通にできることができなくて、あの教室にはいてはいけない存在。痛々しく、見るに耐えない言葉だったけれど、なんだか今日の僕にはしっくりくる言葉だった。
 なんでなんだろう。どこかで、道を踏み外したのだろうか。たしかに小中学時代は、誰とも話さずに生きていたため、「変な人」扱いを受けていた。でも、高校に入ってからは、友達もできたはずだ。今のクラスに、友達と呼べる人はいないけれど。
 なんでだろう。『普通』になったと思ったのに、結局ダメじゃないか。みんなが当たり前にする学生の仕事を、僕は放棄しているじゃないか。
 ああ。辛いな。
「あらー彩世、大丈夫だった?」
 母親がいつの間にか、帰宅していたようだ。いつも母親は、自分のことそっちのけで、僕のことを心配してくれる。
「大丈夫。落ち着いてきたから」
「そう。良かったわ。今日も、文章書いているの?」
 母親は、僕が文章を書くことが好きなことを知っている。母親はあまり読書をするタイプではないため、読んでくれることはほぼないが、僕の趣味を肯定し、応援してくれていた。
「うん。書くことしか、最近はできないし」
「うんうん。ちょっと、見てもいいかしら?」
 珍しい。母親が自ら、僕の文章を読みたいと言ってくるのは。僕はいいよと、今書いていた文章を母親に見せた。
 母親はじっと、うんうん、と頷きながら、僕の文章を味わっている。自分を否定するような文章なので、少々母親には申し訳ない。後ろめたさも沸き起こってきた時、母親は勢いよく、僕の方を振り向いた。
「彩世って、本当に凄いわよね。お母さん、尊敬するわ。普通の人なら、できないことよ」
 にっこりと笑いながら、意気揚々と話す様に、僕は驚いてしまった。そして母親は、「普通の人なら、できない」と言った。
「…そんなことないよ。ただ、自分の言葉を文にしてるだけ。誰でもできるよ」
「いやいや。あなたは、その想いをリズムよく書いているでしょう。お母さんならできない。あなたは凄いわね。特別なもの、持っている気がするわ」
 母親はそう言いながら、僕の頭をそっと撫でた。幼い頃、幼稚園に行く時に寂しくて、毎朝母親に頭を撫でてもらっていたことを、思い出した。
 特別なもの。
「ここに、普通のことは自分はできない、と書いてあるけど、それはきっと、特別なものがあるから。きっとこれは、今の彩世の状況を書いたものなのよね」
 母親の優しい眼差しは、僕の心臓を温めていく。
「…今、学校に行けていないから。今日、思っちゃった。普通に学校行って授業受けることが、僕にはできないんだ、って強く…」
「それが正解だなんて、誰が決めたの?」
 母親は僕をまっすぐ見ていた。先程の優しい眼差しではなく、真剣に僕にモノの本質を捉えさせるような、そんな眼差しだった。
「正解って…」
「毎日学校行って、授業をちゃんと受ける、それはいいことでしょうよ。でもそれは、あくまでいいこと。正解だなんて、決まっているわけじゃない」
 僕は何も言えず、ただただ母親のことを見ることしか、できなかった。
「あなたには特別なものがある。特別な人って、芸術的な人って、一般にはなかなか染まれない、でもその人たちにはその人たちの生き方がある。彩世には、彩世の、生き方がある。学校に、毎日ちゃんと行けなくても、いいのよ」
 母親の眼差しは、優しいものに戻っていた。僕は母親の言葉に異常なくらい、今までの蟠りをすべて溶かしていくくらいの安堵感を覚えていた。
 僕には、特別なものがあるから、学校に行く、授業に行く、という普通のことができない。一般には、なかなか染まれない。
 でも、悪いことじゃないんだ。僕には僕の、生き方があるんだ。
 特別な何かを、僕は抱えて、生きていくんだ。
 母親の言葉で、ようやく、僕は僕に、結論を導くことが、できた。

 しばらくちゃんと学校に通っておらず、定期考査も受けられなかった僕は、決断した。
 通信制の高校へ転学し、自分のペースで、生きていくと。
 そう、心に決めた時。

 僕は僕でいいんだ、そう思うことが、ようやくできた。

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