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最近思ったこと

数年前、息子は「学校に行かない」と自分で決めた。
「あそこは自分のいるべき場所じゃない」とはっきり言葉にした。
私達は慄いた。

とにかく自分自身が納得出来ない事は絶対にやらない。
逆に納得のいく事はとことんやる。
今は自分で決めたフリースクールに通っている。
体調不良以外で休んだことがない。

そして何事も自分の頭でしっかり考え、自分で決める。
誰かの答えに委ねる事はない。
何か疑問があれば、その問題について自分の頭でしっかり考える。

「学校に行かない」と同じくして、「髪は切らない」も宣言した。
数年が経ち、腰まで伸びた髪は豊かで黒黒としている。 
それを本人の希望で毎朝ツインテールにしている。「いっつも女の子に間違われる。不思議だ。」と言っていた。
息子の中で『髪が長い=女の子』という方程式はない。
自分が好きだから髪を伸ばしているだけだ。
ツインテールも好きだからしているだけだ。


近所の同年代の子ども達から「なんで、そんな髪伸ばしてんの?」「女みたい」とからかわれる事もある。
その問い掛けに全く理解が出来ないらしい。
ただ自分は髪を伸ばしたい、それだけ。
以前そう伝えたが納得されなかった。
ヘアドネーションもしたいと考えているので、それも伝えたが「何それ?意味分からん」と返答されていた。
だから、息子はもう何も答えず、無視して立ち去る。
そんな時、彼らはお互いの顔を見ながら嘲笑している。
子どもってこんな残酷な表情するんやぁ〜…と関心すらしてしまう。


それと同じくして、「なんで学校来ないの?」と聞いてくる。
学校に行かなくなって数年が経つのに、未だ会う度にその質問を投げかけてくる。

これについても息子は答えず、無視して立ち去る。
彼らは嘲笑し合っている。
「キモッ」という言葉も聞いた事もある。

以前はこんな時、私自身強烈に辛かった。息子を守る為必死だった。
そして、息子の将来の為にも近所の子ども達を無下に扱ってはいけないと気を遣っていた。
でも今は我関せず。 
質問するのも、それに答えるかどうかも各々当事者の課題。
私は母親で大人であるけれど、私の課題ではない。
その場に取り残された私に質問が集中するが、私も答えずニヤニヤしているだけ。
彼らはそれを異様な目で見ている。

なんだか、すごくズレがある。 
同じ年頃で同じ地域に生まれても、こんなにも考えてることや見たり感じたりしているものが違う。
そんな相手に何と答えたら良いのか全く分からない。
そもそも私には教えてやる義務も筋合いも、そして考えも全くないので、その違和感と異様さを感じてるだけだ。

この違和感と異様さこそが、息子の生きにくさの根源だ。


ところで、「なんで?」.…Why〜?とは便利だなぁと感じる。
質問者は何も考えずに自分の疑問を相手に委ねることが出来る。
頭を使わず、待ちの姿勢で答えを受け取り、それについて評価までして優位にまで立ててしまう。
近所の子ども達は今も昔も「なんで?」「なんで?」を連呼してくる。
「なんで?」と言えば相手は絶対的に答えてくれると思っている。
自分達にはその権利があるんだと疑いもなく、自信に満ちた誇らしげな顔でこちらに挑んでくる。
しかも徒党を組んで。
自分達の分からない返答が返ってきても「意味分からん」で片付ける。
自分達の質問に答えない人間に対しては容赦なく侮蔑する。

もう一つ疑問なのが、この数年で自分達の疑問が解消されなかったのか?という事。
その疑問に対して、彼らへ適切な言葉を投げかけてくれる大人はいなかったのだろうか。
親なり教師なり。
ただ仕方のないこととも思う。

「不登校」なんて無縁の「平和な」地域だから。
「みんな一緒」が徹底されている地域だから仕方がない。
↑上4行は私の悪意のある主観だけれど。

私もそちら側の小学生だったので、彼らをなじってはいけない。
好奇心旺盛だったが、頭はほとんど使ってなかった。
無邪気という刃でガンガン踏み込んでいくアホな子どもだった。
質問された側が答えるかどうかは選択出来ることなんて知らなかった。

息子のお陰で知る事が出来た。
頭を使わず、SNSやテレビ、他人の意見を真に受けてそれらが真実だと思うことばかりだった。

もう一つ考える。
そうやって「普通」「みんな一緒」の中にいて、頭を使わず生きていく方が楽だなとも思う。
今の世の中、とりわけ私達のいる田舎ではそんな生き方の方が圧倒的に生きやすい。
2024年のこの世の中でもだ。

生きやすい方を生きていたかった。
でも気付いてしまったからには、そして「普通」の枠外に出てしまったからにはもう戻れない。

まぁ、それもそれでアリやなぁ♪…と思うとニヤけてくる(笑)






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