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【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#008

#008 無口になった僕はふさわしく暮らしてる

 一九八三年の春から初夏へかけての季節を、僕は渋谷南平台にあった古い雑居ビルの一室で、ほとんどたったひとりで過した。ガランとしたコンクリートの壁に囲まれた部屋で、あるものと言えば中古のスチール製デスクがひとつだけ。その上にはやはり中古の黒くて旧式の電話機が置かれていた。
 毎朝実家のある小田急線の新百合ヶ丘駅から小田急線で下北沢に出て、そこから井の頭線に乗換え渋谷へ。午前一〇時前にはその部屋の鍵を開けた。夜の間締め切っていた窓を開けて空気を入れ換え、土足で入るリノリウムの床をホウキでざっと掃いた。その後デスクの上を雑巾で拭くと、もう廊下の奥にある共同トイレに用を足しにいく以外は何もやることがなくなってしまった。ただ椅子に座り、デスクに置かれた黒電話を眺めた。電話は少しも鳴らなかった。
 そして、ほんの時たま原稿を書いた。アサハラからもらった、彼の雑誌のエロ本原稿だ。それ以外はぼんやりと窓を眺めて過した。窓の外には同じような古びた雑居ビルが建っていて、空室だったのか決して開かない窓と、螺旋の非常階段だけが見えた。二四歳だった僕は、これから先の人生をいったいどうしようと考えていたのだろう? 上手く思い出すことができない。会社を首になって二カ月が経っていた。

 大学時代の友人が「渋谷の南平台に事務所を開いたから遊びにこいよ」と言った。自主映画を作っている友だちだった。映画監督やプロデューサーを目指している若い連中が三人集まって、ゆくゆくは会社にしていきたいということだった。
「手始めに下北沢の『ザ・スズナリ』という劇場で六〇年代からの自主映画の名作を一気に三〇本ほど集めたフェスティバルをやるんだ」
 友人はそう言っていた。
「ユーリ、ヒマなら昼間、事務所に来ないか? 俺たちは会場の方に行きっぱなしだから電話番してくれるヤツがいると助かるんだよ。その合間に原稿とか、事務所で書けばいいじゃないか」
 けれど、電話なんて鳴らなかったし書くべき原稿もほとんどなかった。無職になって呆然としていたところに、アサハラが持ち前の面倒見の良さで「原稿、書いてみるか」と三ページ物の仕事をくれた。電球頭の上司の元で校正をしていたのと同じ、「事件ストーリー」である。性犯罪にまつわる短い物語だ。あのときは中年ライターの書く「へっへっへっ、口では嫌だと言いながら、ココはもうグッチョリじゃねえか」という毎回同じ内容にうんざりしていたので、自分なりに工夫はしてみた。
 当時僕は被告の精神鑑定も手がける犯罪心理学者・福島章の著書に熱中していたので、精神分析にまつわる事件の信じられないようなエピソードをそこから拾い、自分なりにアレンジして文章にしてみた。それでも、二〇〇字詰め原稿用紙にして一〇枚程度の原稿だ。一日あれば終わってしまった。
 自分で企画したコラム〈クライマックス・ボイス〉は、横西さんは「フリーの立場で続けていいぞ」と言ってくれたのだが、デザインに必要な引き伸ばし機を持っていなかったし、何よりネタになる写真の山は会社にしかないので無理だった。

 ただ、会社を首になってしまったことを結局母親に言い出させなかった僕にとって、以前と変わらず毎朝家を出て行けるのは好都合だった。だから友人は「昼間、事務所に居てくれないか」と言ったのだが、八時半には家を出て、一〇時前には渋谷に来ていたのだ。
 そして午後までは隣の雑居ビルの開かない窓と非常階段を見つめて過ごし、夕方から下北沢にある小劇場『ザ・スズナリ』へと出かけた。元は「すずなり荘」という名の大きな木造アパートを改装して造られたという、「鈴なり横丁」という小さな酒場の集まる場所、その二階部分に作られた劇場だ。そして、数々の自主映画の名作を観た。
 インディーズ映画の金字塔たる大林宣彦の『EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(一九六六年)、原将人が麻布高校在学中に撮った『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(一九六八年)、寺山修司、初期の名作と呼ばれる十六ミリ作品『トマトケチャップ皇帝』(一九七〇年)、「状況劇場」の吉澤健が主演、田辺泰志・監督の『空、みたか?』(一九七一年)、原一男によるまさに極私的セルフドキュメンタリーの傑作『極私的エロス 恋歌1974』(一九七四年)、藤沢勇夫のロード・ムーヴィー『バイバイ・ラブ』(一九七四年)。
 大森一樹の『暗くなるまで待てない』(一九七五年)、土方鉄人『実録たまご運搬人 警視庁殴り込み』(一九七五年)、金井勝『王国』(一九七八年)、長崎俊一が監督し内藤剛志が主演した『ユキがロックを棄てた夏』(一九七八年)、室井滋・主演、山川直人・監督の『A子のカラス』(一九七八年)、井筒和幸による劇団日本維新派のドキュメンタリー『足の裏から冥王まで』(一九七九年)。
 矢崎仁司の『風たちの午後』(一九八〇年)、山本政志『闇のカーニバル』(一九八一年)、手塚真『MOMENT』(一九八一年)、一般的には知られてないかもしれないが、田代祐監督『さよなら17歳(セブンティーン)』(一九七九年)という、心をわしづかみにされるような青春映画の傑作もあった。

 降武宏政ふるたけひろまさと名乗る男から電話がかかってきたのは、そんなある日のことだった。いつものように午前中に事務所の掃除を済ませようと窓を開けたとき、めったに鳴らない中古の黒電話が鳴ったのだ。しかも自主映画フェスティバルへの問い合わせではなく、僕宛てだった。
「僕はジャック出版のフルタケと言います。今、『ビリー』という雑誌を作っているんだけど、今度もう一冊雑誌を創刊することになって、手伝ってくれるひとを探しているんだよね。君のことは太陽出版のアサハラさんから聞きました。手が空いてるなら手伝ってもらえないかな」
 降武の語り口には、麹町のギャンブル会社の編集者にはない知的な雰囲気があった。またその口調にはどこか、「俺は面白いエロ本を持って作っているんだ」という、自信と誇りに満ち溢れている感じがした。そして何より、降武はあの『ビリー』を作っていると言ったのだ。そうあの朝、四谷の「山王書房」で見つけ衝撃を受けた雑誌だ。
 ということは降武の仕事を手伝うということは、僕もあの『ビリー』に関れるということなのだろうか? でも、『ビリー』は「ジャック出版」なんて聞いたこともない会社ではなく、暗夜書房の発行ではないかったか、僕の頭の中には短い時間にそんなことが浮かんだけれど、その間にも降武はテキパキと言葉を続けていた。
「とりあえず一度会社に来てもらえないかな。話がしたいんだ。場所は代々木です。新宿駅南口を右に出て甲州街道を下ると、ルミネのトイ面に「三本コーヒー」という喫茶店がある。その角を代々木方面に向かって右に曲がると正面に〈海王〉って看板を出した会社のビルが見えるはずだから、その脇の路地を入ってください。ゆるやかな下り坂の道で、少し歩くけれど道なりに進んでくれ。五分ぼどで坂を下り切って、また上り坂になる。五〇メートルくらい上った左手にある「代々木プリンスマンション」っていう建物の二階です」
 そして最後にこう付け加えた。
「ええともう一度いうけど僕はフルタケといいます。フルは古いじゃなくて雨が降るの『降る』、タケは武士の『武』。じゃあ、待ってます」
 僕は受話器を顎に挟んであわててメモを取り、その足で新宿へ向かった。南口から十五分ほど。歩いてみるとけっこう複雑な道のりだったけれど、降武の説明通りに歩くとあっけないほど簡単に行き着いてしまうのが不思議だった。後にそのことを言うと、降武は「未知の人に電話で場所を説明するのは編集者の基本的な仕事なんだ」とつまらなそうに言った。「先方がわかりやすい所に待ち合わせ場所を指定したり、初対面の人にそのときの自分の服装をわかりやすく説明したり、目印になるカバンなどの特徴を伝えたりするのも同じだ」と。そしてこう付け加えた。「自分の名前も相手にわかるようにしっかり伝えること。お前も「優梨ゆうり」なんて妙な名前なんだから覚えておけ」と。

 降武の言った「代々木プリンスマンション」は、まさにごく普通の住居用マンションだった。当時流行った茶色のレンガ貼りの外装で四階建て。住居数は各階に三世帯。他は一般家庭のようで、ベランダには洗濯物が干してあった。
「ジャック出版」とは正しくは「JACK出版」と書くのだと、玄関のネームプレートで知った。中はいわゆる4LDKという間取りで、広いダイニングキッチンにもデスクが置かれ、そのひとつが降武の机だった。
 行ってみてわかったのだが、JACK出版は編集プロダクションだった。いくつかの出版社から下請けとして雑誌の編集を請け負うのだ。編プロは基本的に、版元から一冊いくらという編集費をもらって雑誌を作る。そのギャラは、売り上げによって上がるわけではない。だから編プロが売り上げを上げようとすれば、必然的に何冊も雑誌を抱えることになる。麹町の出版社では編集長にアシスタント一人で一冊の雑誌を編集するのが普通だったが、降武は驚いたことにたったひとりで『ビリー』を編集していた。しかも時々増刊号や単発の写真集なども定期的に編集する。そこに加え、さらに来月から月刊のグラビア誌が一冊増えるのだという。
「そんなスケジュールの中で、『ビリー』を作ってるんですか」
 僕は驚いてそう訊いた。
「まあ『ビリー』はサワナカさんがいるからな。サワナカさんは言わばプロデューサーみたいな存在なんだ。金は出すけど余計な口は出さない。だけど編集全般を統括してくれて、入校の進行も管理する。そのうえ企画や面白そうなネタは提供してくれるからな。重要な取材はサワナカさんがアポを取ってくれて同行もする。俺の役目は、サワナカさんがプロデューサーならさしずめディレクターかな。ページに具体的なタイトルを付けて、レイアウトや原稿を発注して雑誌の形に仕上げていくってわけさ」
 暗夜書房の沢中慎二という編集者のことは知っていた。『ビリー』の発行人兼編集人というだけではなかった。小学館の写真雑誌『写楽』に村上龍が「コックサッカーブルース」というビニール本業界のルポをやっていて、サワナカはその中で重要な登場人物として登場していたからだ。僕は『写真時代』や『ビリー』同様『写楽』にも強い衝撃を受けていたので毎月欠かさず読んでいたし、何よりデビュー作『限りなく透明に近いブルー』から村上龍さんのファンだった。
「コックサッカーブルース」には、「ハラさん」と呼ばれる人物も登場した。麹町の出版社にも出入りしていたカメラマンの原拓己だ。また横西さんが「ひのやん」と呼んだ原のアシスタント、火野口達彦も「コックサッカーブルース」に載せられた原拓己撮影の写真によく顔を出していた。そんなことを考えていると、「君、メシは食ったか?」
 降武が突然そう言った。
「いえ、まだです」
「じゃあ行こう。一〇〇円でラーメンが食える店があるんだ」
 降武はそう言って立ち上がった。
 僕がびっくりして「ラーメンがたった一〇〇円なんですか?」と聞くと、「ああ。一〇〇円だけどちゃんとした美味いラーメンだぜ」と言ってマンションの玄関へ向かった。
 そう言えばあの日は、編集部には降武しかいなくてガランとしていた。日曜日だったのかもしれない。

 降武政宏は銀ぶちの眼鏡にビートニク風の顎髭と口髭をはやしていて、七月だというのに赤いペイズリー柄のシャツにジャケットを着て、足元には編み上げのワークブーツを履いていた。一〇〇円ラーメンの店は小田急線南新宿駅の向こう側あるということで、僕らは代々木のひっそりとした静かな住宅街を歩いた。
「この辺りは昼間、人が少ないだろう、だからその店は二時から五時までの間、一〇〇円でラーメンを食わせるるんだよ」
 そう言う降武の横顔はいかにもベテランの編集者という感じがしたけれど、髭に被われた顔の奥は、まだかなり若いようにも見えた。
「降武さんはおいくつなんですか?」
「俺かい? 俺はこう見えてもまだ若いんだぜ」
 降武は年齢は答えず、ただそう言ってニヤリと笑った。
 後からわかったのだが、降武は大学生の頃から「九鬼」というビニール本の会社にバイトで入り、大学四年の時からは正社員として働いたのだそうだ。歳は僕よりひとつ上だけの、二五歳だった。九鬼はどこよりも先端的なデザインのビニ本を作る会社だった。それは裸やエロというモノを越えて前衛的なアートのようにも見え、寺山修司の映画の世界にも通じるものがあった。
 小田急線のガード下を抜けたところにその中華屋はあって、汚い店だったが、出てきたのは降武が言ったように値段は一〇〇円でもごく普通の東京風ラーメンだった。シンプルなスープに薄いチャーシューが二枚、あとはネギとナルトとシナチクという定番のスタイルだ。
「君に手伝って欲しいのはB5判グラフ誌だ。間に一台十六ページ活版の実話記事が入る。タイトルは『ボッキー』っていう」
 降武は麺を啜りながらそう言った。
「『ボッキー』、ですか?」
 おそらく男性器の「勃起」もじったタイトルだろう。僕が少しがっかりしてそう呟くと、
 降武は「ダサイ名前だろう」と苦笑した。
「でもしかたないんだよ。ウチは編プロだろろ? 雑誌のタイトルは版元が勝手に決めるから、俺たちにはどうしようもないんだ。『ボッキー』の版元はコバルト社っていうとこでさ、君、『夫婦生活』っていう昔の雑誌を知ってるか?」
「──ああ、何となく、は」
「終戦直後にやたら売れたって言われるカストリ雑誌だよ。今はもう編集者は皆オジイサンばっかりでさ、雑誌を作る体力なんてない。まっ、そんな会社があるから俺たち編プロに仕事が廻るんだけどな。どこも暗夜みたいにカッコイイ雑誌名を付けてくれるとは限らないよ」
 確かに暗夜書房のエロ本はタイトルがカッコ良かった。末井昭編集長による『写真時代』、その前身ですでに伝説になりつつあった『ウィークエンド・スーパー』と『ヘッドロック』、先端的なピンク映画雑誌『ズーム・アップ』、風俗誌の『ビート』、ロリコン雑誌の『ヘイ・バディー』。そしてスーパー変態マガジンの『ビリー』。
 それらに比べ、僕が例の電球頭のギャンブル上司の元でやっていた実話誌は『ザッツ・エロス』という、「ちょっとカンベンしてくれよ」と言いたくなるほどダサイ誌名だった。というのはただダサイだけならいいのだが、僕ら下っ端編集者は入稿などのお使いのため、版下の入った大きな封筒を抱えて電車や地下鉄に乗らねばならない。
 その縦五〇センチ横一メートルほどの巨大茶封筒には、写植会社や印刷所の人たちが他誌と間違ってはいけないという配慮からだろう、マジックで「ザッツ・エロス!」と大書きしてくれているのである。従って僕らはJRや地下鉄で女子高生やOLさんたちに、その文字を読まれないよう身体で隠して移動しなければならないのだ。

 僕が『ザッツ・エロス』をやっているときに、五十崎が島谷さんの元で担当していたのが『クライマックス・マガジン』だった。五十崎は「コレ持って歩くの恥ずかしいよな」と言ったけれど、僕は「お前の方が俺よりは数段マシだよ」と不平を漏らし、五十崎も「そうだよな、『ザッツ・エロス』じゃ弁解のしようがないよな」と笑ったのだ。
 その後、島谷さんが桜庭健太郎率いる「桜庭編集室」に移動になり、横西新編集長の『クライマックス・マガジン』を担当することになって、僕はその「ちょっとマシな」巨大封筒を持ち歩くことになった。しかし結局のところまた、『ボッキー』になってしまいそうだった。
 まあしかたないか──、僕はそう思いつつラーメンを啜った。醤油味の懐かしい味だった。
「いつから来れる?」スープを飲み干した降武はそう言った。
「さっき言ってた自主映画の映画祭ってのはそろそろ終るんだろう」
「あと三日です」
 僕は答えた。
「じゃあ来週からだ。言っとくけどウチの会社はムチャクチャ忙しいからコキ使うぜ。まっ、その代りといっちゃナンだけどココは俺のオゴリな」
 そう言って降武宏政は百円玉を二枚テーブルに置き、
「なんちゃって、二人合わせてもたったの二〇〇円だけどさ」と、ちょっとわざとらしい感じで笑ったのだった。

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