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【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#004


#004  君はそのうち死ぬだろう

「じゃあ、あんた、いったい毎日何をして暮らしてるわけ?」とその医者は言った。
 精神科医というおごそかな肩書きには、およそ似つかわしくないカン高い声だった。黒ぶちの眼鏡をかけた小柄な中年の男で、年齢のわりに黒々と多めの髪は眉の上で一直線に切り揃えられ、まるで帽子のように頭上に乗っていた。診察室に入った時から誰かに似てるなあと思ってずっと見ていたのだが、やっと気づいた。落語家の橘家圓蔵だった。
「えっと、まあ、部屋で本を読んだりとか」
「本を読んだりとか──」
 と圓蔵はカルテに何やら書き込み、チロリとこちらを見た。
「えっ?」僕は聞き返した。
「だから他には」
「んと、まあ、そんなとこです」
 医者はカルテを書くのをやめ、
「ふうーっ」とため息をついた。
「要するにあんた、な〜んもしてないわけね」
「ええ、まあ、そういうことになりますね」
「あなた、いくつ?」
「はっ」
「歳ですよ。年齢は幾つ」
「二三です。もうすぐ二四になるけど」
「あのねえ」とまた、ため息をついた。「いい若いもんが仕事もせずに毎日家でゴロゴロしてるんでしょう、外にも出ずに」
「そうですね。外っていうと、本屋に行くくらいかなあ」
「あのねえ」圓蔵はもう一度言った。
「そんな生活をどのくらいしてるって? ひと夏ほとんどそんなふうに過ごしてたって言ったよね。そりゃおかしくなって当然だよ。誰だっておかしくなる。医者のあたしだってそんなことしてたらノイローゼになりますよ」
「そうでしょうか?」
「あたりまえでしょう。だいたいあんた、何だってそんなふうにぶらぶらしてるわけ?」
「──はあ」
 僕は力なく言った。
「あのね、こんなこと医者のあたしが言うべきことじゃないかもしれないけどね、あんた、自分の人生とか将来だとかについて真剣に考えたことある?」
「将来、ですか」
「そう、将来。そして人生」
 圓蔵は妙に力を込めて言った。
 悪夢のギャンブル会社に入る約ひと月前。一九八二年、夏の終わりのことだった。

 そう、将来、そして人生。まさに問題はそこだった。
 大学の四年も半ばを過ぎたとき、このままでは到底卒業できないことが判明した。卒業するために必要な単位が膨大に残っていたからだ。だからお決まりの就職活動などというものはしなかったし、今まで一緒に遊び廻っていた連中がいきなり髪を切り、リクルートスーツでバタバタと走り廻っているのを他人事のように眺めていた。
 その頃の僕は、ひそかにシナリオライターになりたいと思っていた。大学の四年間、上野にあるにっかつロマンポルノの映画館でアルバイトに明け暮れていた。いっぱし映画青年を気取っていた。だからできれば将来、映画制作の職に就きたいと思っていたのだ。けれど映画の現場とは上下関係の厳しい体育会系の世界だ。ひ弱な自分には助監督修業なんてとても無理だ。だから書く方ならばという、何とも若者らしくない消極的な希望であった。
 ともかく留年して、バイトを続けながらシナリオを書こうと思った。松竹の主催する「城戸賞」や「ATG脚本賞」など、映画やドラマの脚本には幾つかのコンクールがある。それを狙ってみようと考えた。そもそもこれもまた実に甘い考えだったわけだが、そんな僕の目論みはあっさりと崩れる。年が明けて何とか卒論だけは提出すると、なぜか大学は僕を卒業させてくれたのだ。
 同時に神宮前のアパートで一緒に暮らしていた恋人の由紀子が、部屋を出ていった。僕らは大学の同級生だったが、彼女は千駄ヶ谷のとあるジャズ酒場でアルバイトをして学費を稼ぎ、一年前から銀座にあるコピーライター養成講座「宣伝会議」に通って自分の夢に向かっていた。やがて、下北沢にアパートを借りたらしいと友人たちの噂で知った。
 まさにダブルパンチというヤツである。身から出た錆とはいえ、僕はがっくりと肩を落としてアパート引き払い、川崎の実家に戻った。
 四月からは新宿にあるシナリオ学校に入学申込書を出して週一回通うことにした。上野のアルバイト先に通うのは、川崎からではあまりにも遠いので辞めることにした。だいいち親の家に住むのだから、もうバイトして金を稼ぐ必要はないのだ。
 昼過ぎにノコノコ起き出して母親が作ってくれた食事を食べ、一日中、かつてシナリオライター志望だったというバイト先の上司から借りた『日本シナリオ大系』という、百貨辞典のように分厚いシナリオ集を読んで過ごした。これは一巻約六〇〇ページ二段組、全六巻という圧倒的なヴォリュームの本で、二三才にして隠居生活を送っているような若者にとってはうってつけの書物だった。
 古くは伊丹万作にマキノ雅弘、溝口健二、黒澤明といった古典的な名作から、大島渚、吉田喜重らの松竹ヌーベルバーグ、新藤兼人に中島丈博といった名脚本家、ジェームス三木や倉本聡ら人気シナリオライターまで、そんな映画の名作シナリオに世界に、一日中入り込んで過ごしていた。もちろん「将来」ということを考えることもあった。けれど考えれば考えるほど暗くなるだけなので、本の世界に逃げ込んでいた。
 そう、僕は人生に背を向けていたのだ。

 新宿のシナリオ学校は、入ってみると自分が想像していた場所とはずいぶん違うことに気づいた。何となく同世代の映画好きの若者たちが、明日の映画制作を目指して集まってくる場所、というようなイメージを勝手に作りあげていた。しかしそこはどちらかというと、定年退職したお父さんや、ヒマを持て余した主婦の皆さんにシナリオの書き方を教えるという、カルチャースクールみたいな場所だった。
 それは別にいいのだが、週に一本習作を提出して講師に添削してもらい、基礎的なシナリオの書き方や、カットバック、モンタージュなどという映像技法について教えてもらったりする。そういうことはわざわざ学校へ行って学ばなくとも、本を読んだりすればいい話だった。そのうちに六月になり、雨ばかり降り続く季節になると、僕はいつの間にかそのシナリオ学校へ行かなくなっていた。で、何をしていたかというと、やはり部屋に閉じ籠もって本を読んでいた。例の『日本シナリオ大系』や、早川文庫のミステリ小説などだ。当時約三〇作刊行されていたエド・マクベインの警察小説『87分署シリーズ』を、第一作の『警官嫌い』から一冊ずつ順番に読んでいった記憶がある。よほど時間を持て余していたのだ。
 時々、母親が珈琲などを持って部屋を覗き、「勉強の方、進んでるぅ?」と嬉しそうに言った。
 たいていの親であれば、大学まで出してやった息子が日がな一日仕事もせずにぶらぶらしていたら怒り狂うのが普通だと思うのだが、世問知らずのお嬢さん育ちで人のいいオフクロは、息子が作家になるために毎日部屋にこもって一生懸命勉強しているのだと信じて疑わないようであった。
「今日、晩ご飯は何時に食べる?」母親はニコニコして聞いた。
「何時でもいいよ、母さんが食べたいときで」僕は答えた。そもそもいい若い者が何もせず、日がにゴロゴロしているのだ。食欲など湧こうはずもなかった。
「そう? じゃあ六時にしようか。お母さん、リカと一緒にご飯が食べられて嬉しいわあ」
 オフクロは孝行息子を持った幸せな母親のような顔でくるりとターンして見せ、スキップするように階下に降りていった。
 親父の仕事が不規則なせいもあり、四つ歳上の兄貴が結婚し、続いて僕が家を出て以来、いつもひとり淋しく夕食をとっていた母親は、息子と一緒に晩飯が食えるというのが嬉しくてしかたないようであった。
 ちなみに「リカ」なんていう女の子みたいな名前を僕に付けたのはこの母親だ。なんでも彼女のお腹に中にいた頃、僕は内側から足で蹴ったりなんて絶対にしない、とても大人しい子だったそうだ。だから母は「この子は絶対に女の子だ」と確信し、生まれてきたら「理夏」と名づけるのだと決めていたという。女学校時代の親友で、戦時中の空襲で亡くなった娘の名前だったらしい。
 ところが僕は──立派だったかどうかは知らないが──おちんちんを付けて誕生した。祖父母や親戚は「男の子にリカなんて名前は可哀想なんじゃないか」「いじめられるんじゃないか」と意見したらしい(実際イジメには遭わなかったが、小学生の頃は同級生の女の子たちに散々からかわれた)。せめて「さとか」とか「よしか」と、読みだけでも変えてやる方がという意見もあったそうだ。でも、彼女はガンとして受け入れなかった。いつだったか「なぜ?」と尋ねたことがある。オフクロは言ったね、
「だって、リカの方が可愛いじゃない!」

 ともあれ、その頃からだんだん夜が眠れなくなった。これも今考えれば当たり前だ。健康な二三歳の若者が、一日中部屋に閉じ籠もって本だけを読んでいるのだから、体力の使いようがない。
 その日も眠れないまま階下に降りていくと、めずらしく親父が帰っていて、居間でウイスキーを飲んでいた。
 僕の父親は役者を生業にしていた。元々は大島渚監督率いる「創造社」という独立プロダクションに所属し左翼的な社会派映画に出演していたのだが、解散した後はテレビ時代劇の悪役などをやってそこそこ世間には知られていた。けれどそれはあくまで家族を食わせていくためであり、本来はやはり映画が舞台がやりたいらしく、普段家にいるときは苦虫を噛みつぶしたような顔で酒を飲んでいた。ただその日に限ってはとある美人女優さんとスタジオで一緒になったとかで、妙にご機嫌だった。
「何ンだ、お前、帰ってたのか。大学の方はどうだ」と訊いた。
「卒業したよ」と言うと、
「そりゃめでたい。飲め、まあそこに座って飲め」と笑った。
 台所に行ってグラスを持ってきて座った。
 親父は言った。「あー、あれだ。ヨーコとかレイコとかいったかな、お前の彼女、どうしてる? ありゃイイ女だ。また連れてこい」
 どうやら由紀子のことを言っているらしい。
「別れたよ」
「どうして。結婚するんじゃなかったのか」
「フラレたんだ」
 そう言うと「お前はダメだなあ」とウイスキーをくびりと飲んだ。
「それに比べると俺は相変わらずモテるぞ。今日もその美人の女優さんにな、『ユウリさんって素敵』って言われたぞ。俺がジャック・ニコルソンに似てるって」
 そう言って「ウッヒッヒ」と笑う。そして自分の額の辺りを指差し、
「特にこの、オデコの感じが似てるってさ、セクシーだって。どうよどうよ」
 そう言って僕の背中をドスドスドスと叩いた。
 ちぇっ、ハゲてるって言われただけじゃねえか。僕は心の中でそう呟く。
「で、お前、卒業して何するんだ?」
「シナリオライターになろうと思ってる」
 そう答えると「フーン、お前にそんな才能があるのかねえ」とバカにしたように笑い、
「まあ、いい。もう寝ろ。俺はもう少し飲んでから寝る」と言った。
 何ンだよ、飲めと言ったかと思うと今度は寝ろかよ。そう思って自分の部屋に戻ろうとすると、
 背中で「おい、俺がどこの大学を出たか知ってるか」と不意に言った。
「京都大学の英文科だろ、耳が腐るほど何百回も聞いたよ」
 僕は答える。
「しかも芝居ばっかりやってたから旧制高校を落第して、でもちょうど新制高校に変わるときだったから、お祖父ちゃんを上手く騙して留年したんだろ」
 そうこうしてるうちに受験が近づき、でも自分は頭がよかったから、三日間徹夜の一夜漬けならぬ三日漬けで京大に合格した。それが親父の自慢話だった。
「何が言いたいかというとだな」と親父は言った。
「そんなふうに天才的に優秀な俺様がだ、名門の京都大学を卒業しながら、あの時代は職がなかったんだ。不況でな。だからしかたなく安月給の高校教師になったんだ。母さんの腹の中にはもうお前の兄貴がいたからな」
 ウチの親父とオフクロは旧制高校・女学校時代からの付き合いで、学生結婚だった。だから親父は大阪の私立高校で英語教師をやりながら芝居を続けた。そして三〇才になったとき、大学の同窓だった大島渚監督に誘われ映画に出演し、プロの役者になった。
「だからお前は好きなことをやれ」親父は言った。「お前にものを書く才能があるとはとても思えんが、まあ、やりたいようにやってみろ。お前ひとりくらい、俺が食わせてやる」

 親父に「やりたいようにやってみろ」と言われたからというわけではないが、僕はそのひと夏をかけて、長編のシナリオを一本書いた。ちょうど松竹の「城戸賞」の〆切があったのでそれに応募した。けれどそうやって書いた四〇〇字詰め原稿用紙五〇枚ほどを綴じて封筒に入れ、投函してしまうとやることが一切なくなった。百貨辞典のように分厚い『日本シナリオ大系』全六巻も、既に読み終わっていた。
 一九五〇年代から始まったエド・マクベインの『87分署シリーズ』も、黒澤明の『天国と地獄』の原作になった『キングの身代金』(一九五九年)から十四作目『クレアが死んでいる』(一九六一年)、二〇作目『人形とキャレラ』(一九六五年)辺りまでがやはりピークであり、七〇年代にも『サディーが死んだとき』(一九七二年)、『われらがボス』(一九七三年)という名作はあったものの、パワーダウンは否めなかった。読書欲は次第に失せた。
 すると僕自身の精神に、奇妙な歪みが訪れ始めた。まず、夜がまったく眠れなくなった。そして不思議なことが起きるようになった。例えば昼間、本屋などに出かける。そして家に帰ろうとするのだが、ある道がどうしても通れなくなるのだ。しかたなく遠廻りして戻ると、次の日にはその道も通れなくなる。やむなく別の道を、するとやがてその道も歩けなくなる。これはマズイなと、本能的に感じた。自分という存在の選択肢が、ギリギリと削られている気がした。
「それはね、あんた、ヒステリー症状というヤツですよ」橘家圓蔵似の精神科医はそう言った。
「断っとくけどヒステリーったって、女性がキーッとなるアレのことじゃないよ。ありゃ偏見だし女性に対する差別用語です。ヒステリー性神経症、正式には解離性障害と言ってね、男も女も関係ない。何らかの精神的要因が、行動のコントロールを妨げるわけです。まあ、あなたの場合、病気というほどのもんじゃないと思うけどね。簡単に言えば思い込みってヤツです」
 その市民病院にやってきたのは、大学時代の友人の話を思い出したからだ。
「とにかくちょっとおかしいなと思ったら医者に行くことさ。あんまり特殊な場所だとは思わないでね」
 高校生の頃から精神科通いをしていたという彼はそんなふうに言ったのだ。
「今は抗鬱剤や抗不安剤がよくなってるからね。一発で治るよ、副作用もないしね。風邪を引いて医者へ行くのと大差ないさ」と。

「あんたね、自分はひといちばい繊細な人間だとか思ってないだろうね?」
 橘家圓蔵似の精神科医はそう言っていた。
「自分は人よりナイーブで傷つきやすい人間だなんて、気持ちの悪い考えを持ってないだろうね。だから精神を病んだんだなんて自惚れてないかね?」
「──はあ」僕は力なく答えた。そのときの僕には、そんなふうに自分を分析する気力なんてなかったけれど、圓蔵医師の言葉には説得力があった。
「あんた脚本の勉強してるって言ったね。それで将来やっていけるかどうか不安だって。だけどね、不安だとか心配だとか考える前に、努力というものをしたと思う?」
「それはモノを書く努力、ということですか?」
「つまりねえ、あたしも商売柄、論文なんて書くこともあるんですがね、モノを書くにはモノを書くための力ってヤツが必要でしょう? あんた、自分にはそれだけの力があると思ってます?」
「才能ってことでしょうか」僕は聞いた。
「およしなさいよ。才能なんてのは大天才のためにある言葉ですよ、ジークムント・フロイト博士とかね。あたしらが書く論文なんかに、才能なんてちっとも必要ない。あんたもそうじゃないんですか? 例えばだね、あんたが脚本を一〇〇本書いて、その中に世問に認められるものが一本もないとしたら、それはあんたに才能がないってことになるかもしれない。だけどね、たかが一本や二本モノを書くのに才能なんて要りませんよ、そうでしょう」
 立て板に水、圓蔵はまさに噺家よろしくそう語った。そのうち扇子で膝を叩き、「ヨイショっと」と言い出しそうだった。
「とにかくコツコツとやってごらん。何でもいいんだよ、勉強でも仕事でも。自分が最低だと思ったんだろう? だったらもうそれ以上落ちやしないんだから、やってみたらいいんだよ。違いますか?」と。
 そうかもしれないと思った。僕に「精神科なんて風邪を引いて医者へ行くのと大差ないさ」と言った友人は、大学三年生の終わりに休学してインドや中東を放浪した後、郷里に戻って自殺した。鳥取の裕福な地主の息子だった。広大な敷地内の江戸時代からあると伝えられた藏で、首を吊ったそうだ。僕がその話を聞いたのは、橘家圓蔵似の医師に診てもらってから、さらに二年ほど先のことなるのだが。

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