ある夏の出来事

 あなたはいつから神を信じていますか。そう聞かれたとき、人はなんと答えるのだろう。おそらく、多くの人がそんなものは知らないと言う。人には神を信じるようになったきっかけも無いし、神が本当にいるかどうかの証明すらもできない。それなのに、多くの人が困ったときには神頼みをするし、年の瀬には神社を訪れる。かくいう私も神を信じる。ただ、こんなことを言って理解してもらえるかは分からないが、私には神を信じるようになった明確なきっかけがある。あの夏の出来事、いや、あの夏から今でも尾を引いているあの出来事が、私に神の存在を認めさせるようになった。

 私の友人に稲森という人がいた。彼の家の北側には小高い山があった。私たちは学校の放課後になると、そこでよく遊んだ。昆虫を採取したり、山菜を採ったりして、自然の恵みを一心に受けながら、少年時代を過ごした。中学生になった頃、私は反抗期に突入し、家出を繰り返し、何度も彼の家に泊まるようになった。稲森の部屋でゲームをしたり、お菓子を食べたりして長い夜を過ごしていた。碌に勉強もせずに、無為な一日を過ごしていたある日、稲森がこんな提案をしてきた。
 「肝試しをしない?」
同じことを繰り返してばかりの日々に飽き飽きしていた私は、心を躍らせた。
 「行こうぜ」
 「よし、行くか」
稲森は立ち上がって、水が入ったペットボトルを手に取ると、部屋を出ようとした。
 「ちょっと待ってくれ。この辺に心霊スポットなんてないだろ」
私は座ったまま、稲森の背中をみている。
 「心霊スポットなんてなくても、肝試しはできる。それに、誰も見つけてない心霊スポットを見つける可能性だって考えられるだろ?」
と、彼は前を見たまま言った。確かにそうだな、と思った。体を起こし、財布と携帯電話をポケットに入れて、忍び足で階段を下りる。稲森の両親にバレないように、ゆっくりと玄関を開けて外に出た。ヒグラシの鳴き声が後ろの森から聴こえる。風が涼しく、稲がざあざあと音を立てていた。
 「どっちに行く?」
 「どうしようかなぁ、山の方に行った方が面白い気はする。俺たちは山の向こう側まで行ったことないよね?」
 「言われてみればそうだ」
私たちは北側にある山を見つめながら、道路に出た。街灯がなく、スマホのライトで道を照らしながら、北へ北へと歩く。途中、私たちはお互いを脅かし合いながら暗い山道を進んでいった。帰り道が分からなくなる可能性を考慮して、右にも左にも曲がらずにまっすぐ進んだ。歩き始めてから十五分経つと、道が険しくなってきた。歩けば歩くほど私たちの気持ちは高ぶっていった。
 「だいぶ雰囲気が出てきたな」
 「ああ、山道を歩くだけでも肝試しになるな」
 「横から女の幽霊が出てきたりしてね」
 「やめろよ」
興奮と恐怖が入り混じる中、奥の方へと進んだ。ただ、古びた小屋やトンネルといった心霊スポットらしいものは見つけられなかった。これ以上は危ないなと判断し、帰ろうと思った。すると、稲森が口を開いた。
 「え、まって。あれみろよ」
 「なんだよ」
彼が左側を見ながら、ゆっくりと指さした。
 「落石注意の看板しかみえないけど」
 「いや、違う。その左側をみろよ」
目を細め、暗闇をじっと見つめた。前方には石づくりの階段がぼんやりと佇んでいた。
 「おまえ、これは…」
私がすごいな、と言いかけたとき、稲森は興奮して早歩きになった。
 「こんなの行くしかねぇだろ」
私たちは階段を登った。こけないようにライトで地面を照らしながら登った。息を切らしながら登りきると、そこには鳥居があった。
 私はそれを関心と恐怖が入れ混じった目で仰いだ。長い間、人の手がついていないのか。よく見ると廃れている。塗装ははがれ落ち、中央の名札をみても、くすんでいて神社の名前が分からない。両脇に鎮座している狛犬には苔が生えており、境内には雑草が生い茂っていた。奥を見ると、月明かりに照らされた本堂がぼんやりと見える。
 「稲森、奥まで行って祈ろうぜ」
 「こんなところで祈っても、十円の価値もないだろ」
私たちは冗談を言いながら、本堂へと歩いた。十歩ほど進んで、賽銭箱の前に来ると、荒廃した本堂の姿に息を呑んだ。屋根は半壊し、床は抜け落ちている。ただ、鈴を鳴らすための紫色の紐だけは綺麗に残っている。私たちは財布から十円を取り出し、鈴を鳴らした。宵闇に包まれた神社の中に、鈴の音が大きく響く。風のささやきが神の到来を告げるかのように、神秘的だった。二礼二拍手一礼。祈り終わって、横をみると、稲森が恍惚とした表情をしており、私は彼が何を願ったのか気になった。
 「おまえ、何をお願いしたの?」
 「かわいい女をたくさん抱けますようにって願ったよ」
 「煩悩の塊じゃねぇか」
私たちは笑った。恐怖を忘れた。しばらくの間、あたりを見渡していても、神らしいものはどこからも現れなかった。神なんて、昔の人が作ったまやかしだなと、思った。もうちょっと散策してみようと、境内を歩いた。しかし、どこに行っても草が邪魔でまともにあるくことができなかった。飽きてきたから帰ろうと思い、横を見ると誰もいなかった。頭の中が真っ白になった。心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。おい、稲森どこに行ったんだよ。そう呼びかけても、木々が風に揺られるだけで返事がない。
 これは本当にまずいことになった。神隠しか?
私は焦り、走ろうと思って地面を強く蹴った。そのとき、何者かが足首を掴んだ。私は、手で目を隠し、うずくまった。助けて下さいと一心に祈っていると、肩をやさしく叩かれた。
 「おまえ、びびりすぎ」
ゆっくり振り返ると、稲森が微笑していた。私は安心して、彼の手を握ると立ち上がった。その後、二人で冗談を言い合いながら、山道を引き返した。家に到着したのは午前三時頃だった。一時間くらい歩いていた私たちは疲れていたのか、家に到着するとすぐに眠った。

 翌朝、雀の鳴き声に起こされた。私たちは昨晩歩いた山道をもう一度、進んでいった。昨日とは打って変わって、とてもうるさい。蝉の鳴き声が四方八方から聴こえ、日差しが眩しい。汗まみれになりながら、山の奥へと歩を進める。歩き始めて20分すると、目印の落石注意を伝える看板が見えた。
 「このへんだよな。たしか、この看板の左側にあるはずだ」
稲森がそう言って、私は昨日と同じように目を細めたが、階段はどこにもなかった。不審に思い、辺りを見渡したり、ちょっとだけ奥に進んだりしたが、どこにも階段は見当たらなかった。階段の左側にある坂道を登ったが、神社はなかった。昨日の出来事は決して私たちの見間違えや幻なんかではなかった。確かに階段を登ったし、鈴を鳴らした。おかしいな、と思った。あたりを何回も歩き回ったが、神社は見つからなかった。水を持ってなかったため、不審な気持ちと興奮とがぐちゃぐちゃになったまま、われわれは家に戻った。
ネットの地図で歩いた道を確認した。何度確認しても、同じ道を通ったことに間違いはなかった。ネットで家の付近にある神社を検索しても、私たちが通った道の直線状に、神社は一つも存在していなかった。

 と、ここまでなら、誰かを楽しませるために作った嘘だと言えるかもしれない。しかし、この話には続きがある。神社がなかったことよりも、むしろそっちの方が、私にとっては不思議なのである。
 五年前、地元で同窓会が開かれると聞いた私は、関西から佐賀県に帰省した。居酒屋の席についた懐かしい顔ぶれを見ながら、同級生たちと昔話をしていた。酔いがいい感じに回ったところで、あの日の出来事について話した。
 「…。それで翌朝、同じ道を通ったらどこにも神社がなかったってわけよ」
 「おまえ、さすがにそれは嘘だろ」
 「そんなこと、ありえるわけないじゃん」
と、同級生たちが笑いながら、からかった。本当だよ、と何度も言ったが誰も信じなかった。
 「そんなに信じられないなら、稲森に聞いてみろよ」と、私が言ったとき、同級生たちが笑った。
 「おい、稲森って誰だよ」
 「やっぱりこいつ酔ってるぞ」
 「酒にのまれてるぞ!」
笑い声が居酒屋の中で飽和している。私は酔った頭で目の前の出来事を咀嚼した。稲森はクラスの中でも人気者だったから、忘れられるはずはない。酔ってるからといって、クラスメートの存在を同級生のほぼ全員が忘れるとも思えない。酔いがさめてからもう一度、稲森のことを同級生に聞いてみたが、返事は同じだった。もうその話はいいよ、と軽くあしらわれるばかりで相手にされなかった。
 私は母親に車で迎えに来てもらい、家に帰った。車の中で母親にも聞いてみたが、そんな人いたっけと、言われるだけだった。母親すらも覚えていないようだ。家に着くと、自分の部屋に足早に戻り、中学校の卒業アルバムを開いた。しかし、写真のどこにも、クラスの集合写真にさえも稲森の姿は見当たらなかった。怖くなった。失踪したならまだ分かるが、存在そのものが無くなるなんてことはあり得ない。まるで、パラレルワールドに迷い込んだかのような気持ちになった。私は酔った頭で困惑したまま、風呂に入り、その日は目を開けたまま夜を明かした。
 翌朝、私は夢でも見ていたのかと思い、私は母親に稲森のことを再度尋ねた。返答は同じだった。自分が間違っているかもしれない。そう思って、車を運転し、稲森の実家があった場所まで行った。速度規制を無視しながら、田舎の道を猛スピードで駆け抜けること十五分。彼の実家に到着した。田んぼのあぜ道、北にそびえたつ山。目の前にある家は確かに稲森の実家だった。車から降りて、インターホンを鳴らす。十秒くらい経つと、中から見覚えのある老婆が出てきた。
 「お久しぶりです。竹下晋平です」
 「はい」
 「あの、稲森巧君って今どこにいますか?」
 「はあ」
老婆は困惑していた。
 「ここって、十五年前に中学生だった稲森巧さんの実家ですよね?」
 「稲森?人違いじゃありませんか?私は稲田ですよ」
 「え、ここは稲森巧さんの実家で、あなたは母親の稲森恵美さんじゃないのですか?」
 「何を言ってるんですか?私は稲田千代ですよ」
 「え」
頭の中が真っ白になった。本当におかしいのは自分なのではないかと思い始めた。戸惑いながら、目の前の老婆に挨拶すると、車に乗り込んだ。しばらくの間、腕を組んでいた。昨日の夜から起こっている出来事を頭の中で反芻した。暑い車内で汗を拭くと、エンジンを点けた。私は家から車をだすと、ダメもとで山の方へと向かった。稲森と肝試ししたあの日の思い出がよみがえり、涙が頬をつたう。歩くときとほぼ同じスピードで、山道を登っていった。やけに暑かった。ずっと進んでいると、落石注意の看板が見えたので、私はそこで車を停めた。車内からぼんやりと看板をみていると、信じられない光景が目に入ってきた。
 またしても、看板の左側に階段があった。それをみて嬉しくなった。稲森はやっぱりいたじゃないかと私は思った。
 あのときの思い出は決して、嘘なんかではない。
はやる気持ちを抑え、車から出ると。私は階段を登った。あのときよりも、段差が低くなっているような気がした。靴が石にあたって、こつこつという音を鳴らしていた。階段を登りきると、そこには、やはり神社があった。ただ、昔と違って、綺麗になっていた。狛犬の苔は落ち、本堂の屋根と床は作り直されていた。私はふと、神社の名前が気になり、鳥居を仰いだ。太陽の光が眩しいため、ちょっと横に歩くと、ようやく名前を確認することができた。鳥居の中央部には次のように書かれていた。

稲森神社

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