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フィロソフィーの訳語

オヤジブログ怪気炎 vol.160

4月6日に「哲学を必須科目に!」とタイトルした記事を投稿をしました。そもそも哲学を実学から遠い学問と捉え、それを学んだからと言って何か役に立つことがあるのかと疑問を抱いている方には、伝わりにくかったかもしれません。
ご存知の通り「哲学」は、フィロソフィーに対する西周の訳語ですが、西周以前に中江兆民が「理学」と訳しています。兆民は西洋の先人が考えてきたことと東洋思想に共通する根っこへ思索を深めようとしていたようですが、哲学と名付けられた学問は、大学では文学部に位置付けられて、ソクラテスに始まる西洋哲学を学ぶ場所となりました。現在、高校では「倫理社会」が「公共」という科目に吸収されていますが、西洋哲学の主だったところを学ぶことについては、西周の発想から抜け出ていません。

4月6日の投稿で、ボクは生成AIの時代を迎えている今こそ「自ら問いを立てる重要性」と書いたのですが、明治以来西洋哲学の体系をありがたいものとして、受容し続けてきた日本人に自ら問いを立てると言っても少しハードルが高すぎるかもしれません。
果敢にチャレンジした方が西田幾多郎ですが、読む側に仏教とりわけ禅思想の学びがベースとして備わっていないと分かりにくい部分があり、一般的には西田思想が日本哲学の遺産として知られているものの、現状その功績を広く日本人が受容理解しているとは言い難い気がしています。

まず方向として、借り物でない足についた思想を大切にしたいです。

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