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鍋島直正公の軌跡① 経営

オヤジブログ怪気炎 vol.136

佐賀城本丸跡前に鍋島直正公の銅像が建っている。幕末の大河ドラマに出てくる殿様としては、島津、毛利、水戸徳川、会津松平に比べて馴染みが薄い。
しかし、少し調べてみるとなかなかの名君なのでして、今回はその軌跡を辿ってみます。
幕末ともなるとどの藩も財政難に喘いでいたわけですが、肥前佐賀藩も例外ではなく、直正初めてのお国入りの際には、借金の返済を求めて、商人が詰めかけ、大名行列が出発できなかったという話が残されている。翌年の参勤交代ではお供を91人減らして、千二百両を節約した。正室は将軍の娘盛姫。江戸藩邸の出費がかさんでいたが、直正は藩邸費用の削減を断行している。
直正が推進した改革のうち、注目すべきものの一つ目は、均田制という農地改革。目的は小作人をなくして勤労意欲を高めること。その結果佐賀藩では一度も百姓一揆が起きていない。
二つ目は、算盤大名と仇名されるほどの経営感覚で、米の年貢収入の蔵方の他に商工業者からの運上銀による懸硯方があり、会計が二重帳簿であった。とりわけ伊万里、有田の陶磁器の専売による収入やグラバーと力を合わせた高島の石炭採掘による収入は大いに財政を潤したであろう。だからこそ新しい科学技術を取り入れ、他藩に先駆けて日本製の大砲を製造できたのだ、その大砲のレプリカが佐賀城本丸の前に置かれている。
なぜここまでトップダウンで改革が進められたのか? 一つは父親である前藩主が財政難の課題を克服できず、藩内に倹約の気風を広められなかったことだろう。だから借金取りがお国入りの日に押しかけてしまう。もう一つは、藩主の座に就いたのが十七歳で、まぁいわゆる若殿であります。その若者に真正面から正論を吐かれては、年寄り重鎮諸氏も従わざるを得なかったのではないでしょうか? 「先憂後楽」という直正の言葉がありますが、先見の明で次の時代が求めている政治を実践したのでしょう。

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