テレビ欄の時間

自分はデジタル人間でもアナログ人間でもないけれど、デジタルになって切実に困っているものが1つだけある。

それはテレビの番組表、新聞でいうところの「テレビ欄」である。

「デジタルになった」というと語弊があるかもしれない。

ともかく新聞を取らなくなったことで、当日の放送内容はネット、あるいはテレビのメニューとして表示される番組表で確認するようになった。


このデジタル番組表(と仮称する)、すでに過ぎた時間帯の番組情報は削除されていくため、見ることはできない。

現在視聴可能な番組と、今後見られる番組だけが表示される。

―もう観られない番組は表示されない―

わたしにはこれが、とんでもなく心もとないのである。

このデジタル番組表を見ると落ち着かなくて、見事にテレビを観る機会が激減してしまった。(それ自体はよいとも悪いとも感じないが)


終了した番組は表示しない。

これは機能性を考えれば当然のことであるのは分かる。

テレビ欄の該当箇所でリモコンボタンを押せば放送中の番組を視聴できるようになっているし、これから放送される番組ならば予約操作ができる。こうした操作性や目的を考えれば、当然表示対象は今か未来かに限定される。終わった番組を表示する必要はいっさいないのだ。


だけど私はこうなって気づく。


夜更け、ぼんやりと新聞の今日のテレビ欄を眺め、観られなかったけれどこんな番組があったんだなあと、感想とも感情ともとれぬ心の動きを感じる。その表立った有用性など一切ない所在ない時間の、なんと幸福であったかということを。


たとえば「デジタル番組表」の「これからの番組」を眺めていて同じ感懐にひたれるかというと、そうではない。ぼんやりとこの先放送される番組を見ていて、「あ、これ面白そう」と思ってしまったら、それはとりとめのない感情ではなく「観る」という目的に変貌してしまう。


たとえ「デジタル番組表」で過去の番組が表示されたとしても、同じことである。私は、「過去の番組を見てみよう」という大々的な目的のもとでリモコンの「上へ」ボタンを操作しなければならない。ここでもやはり、アナログの誌面を眺めているときのようなとりとめのなさ、それによる心地よさは得られない。


 


デジタルが前提とする人間の能動性は、アナログのそれよりもやや強いことが多い。


少なくともテレビ欄の件はそうだと感じる。


目的や解釈、意味付けから開放される時間は、私にとっては思いがけず「新聞のテレビ欄」が保証してくれていたのだと、それがなくなった今知らされたのである。


 そもそもどうしてこんなにも目的や解釈から解放されたいのかは言語化できないけれど、とにかく休まるのだ。ああ楽ちんだ、と思う。


 では何もない広大な大草原に行けばいいかというと、入ってくる情報が少なすぎることもまた、思考力をむやみに働かせてしまう。雑多な情報が流れるように入ってくるにもかかわらずそこに意味付けをする必要がない、というのが、「休まる」ための個人的にベストな状態である。


人間には二種類ある、何となにか。


こんな議論にいつか参加できるとしたら、私は迷わずこのことを言おうと思っている。

すなわち、テレビ欄で過去の番組を見られない状況に耐えられる人と耐えられない人である。

家族の3分の2が前者なので、私はわざわざ新聞代を捻出することには躊躇している。



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