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赤ひげドクターつれづれ草 (1)


        ~私の履歴書~
                      亀井克典

 名古屋で在宅医・緩和ケア医として日々患者さん・ご家族と向き合っている内科医です。まずは自己紹介させていただきます。
 私は1957年名古屋市千種区覚王山の生まれです。父は特定郵便局覚王山郵便局の局長でした。当時特定郵便局制度というのは不思議な制度で、公務員なのに事実上世襲が認められ、自宅の1階に郵便局舎があり、郵政省から家賃をもらっていました。私も郵便局長になりたいと言えばそのまま父の跡を継げたのですが、地元の公立小中高を卒業後、漠然と正義感から「へき地医療に貢献したい」と医学の道を志しました。
 1975年国立秋田大学医学部に進みました。1969-70年をピークに全国に吹き荒れた学園闘争は東京などでは下火になっていましたが、秋田ではまだまだ盛んで、私も先輩に簡単にオルグされて学生自治会運動や医療問題に関する市民運動に参加し、社会の様々な矛盾を学びました。20歳3年生の時に、同級生の留年判定を巡って大学側と対立し、医学部自治会委員長として開学以来初の医学部3年学年ストライキを指導しました。
 夜を徹して医学部講堂で学生討論会を開催し結束を図りましたが、学部側の「全員留年」をちらつかせた恫喝に負けて、次々にスト破りの学生が増えました。授業に出ようとする同級生を教室の前でピケを張って阻止しようとしたのですが、その中の一人が「俺は経済的に留年したら学生生活を続けら
れなくなるんだ。お前は俺の一生の生活を保障する覚悟があるのか」と吐き捨てて授業に向かうのをみて、3日間でストの終結・敗北を決断しました。  その後ストライキのリ―ダーとして相当な処分を覚悟しましたが、結局おとがめなしでした。今ではあり得ませんが、まだ学生運動には寛大な時代だったと思います。   
 当時医学は臓器別専門分化がもてはやされ、医師の専門領域も細分化されつつありましたが、市民や地域社会との交流を重ねる中で、臓器ではなく人間全体さらには背景にある地域の人々の生活も診るような総合臨床医をめざしたいと思うようになり、臓器別専門医育成機関の大学には残らず、いきなり在宅医療や地域保健事業の展開で地域医療の旗手として名を馳せていた新潟県の小さな町立病院に入職しました。
 その後、千葉、長野と地方の公立病院で地域医療の研鑽を積み、1994年36歳の時に和歌山県南紀白浜で第3セクターの公的病院の院長に就任しました。若さに任せて開院当初は3日に一回救急当直し、白浜町と連携しながら外来、入院、在宅、健診とフル回転で働きました。今厚生労働省が推進しようとしている地域包括ケアを先取りしたシステムづくりを経験し、46歳の時に両親の体調悪化等もあって生まれ故郷の名古屋に戻りました。
 地方では自治体と公的医療機関が一体的に地域医療システムを構築しやすいのですが、大都市では供給過剰なほどの医療機関や介護事業所があり、それぞれの規模、役割、能力を把握しながらICTも活用したネットワーク形成が課題でした。
 名古屋で約20年にわたり、在宅ケア、緩和ケアの普及を軸に、私なりに地域に根差した地道な臨床医としての活動を続けてきたことを評価していただき、思いもよらず2024年3月に第12回日本医師会赤ひげ大賞を受賞しました。授賞式では選考委員を務めていただいた岐阜大学と佐賀大学の医学生の皆さんに「働き方改革でオンオフの区別をつけることは大切だが、臨床医は常に患者さん・ご家族のことを思い、寄り添う気持ちを忘れてはいけない」と訴えましたが、「昭和のおっさん医師の繰り言」と思われたんだろうと思います。
 ここ数年は医療の狭い世界から殻を破りたいと思い、市民の方々との交流に力を入れています。NPO地域共生を支える医療・介護・市民全国ネットワークの共同代表として2023年9月にウインクあいちで全国の集いを開催させていただきましたが、この地方在住のその時の中核メンバーが集まり、最近任意団体「地域共生ネットワーク東海」を発足し、中日新聞元編集員で同い年の安藤明夫さんと共同代表として活動を始動しました。また多職種の医療専門職によるがん相談事業NPO法人「tomoniなごや」の理事長として社会貢献として無料相談事業も始めています。
 地域医療現場でのいのちをめぐる様々なエピソードや地域共生をめざす取組みについてつれづれなるままに書かせていただければと思っています。拙文にお付き合いいただくのは恐縮ですが、ご一読いただければ幸いです。


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