他山の雑草だましい
道草とか奔馬は、それを書いている。他人とは一致していかないから、、熱く成ってる相手も止めない。
情熱はかえきかない。
「死を覚悟してから何年生きるか」決定して来る。
真剣なきもちは誰のために必要?
実は真の自分のため。
そりゃママ抱っこみたいな何も無いさ。
甘えて出来るコネクションも無くてイイの。
必要?錯覚さ。
SNSから、そういうところは決まんないよ。
リアル生きる以外に方法は、無いから。
あっても見ちゃならん。娯楽を超えない。
カントの本質的な哲学は、意志から決めたんなら、自然の法則の埒外の別勘定に計算されるという事。
きめたら、決める前とは世界、違う。
貫徹する法則等無い。
動かしたら動く、それも自同律。
考えうる実在とするものは、この条件からして、その左右はうける。
自分意志、、はっきり持ったら、惰性の緩慢な法則はかわってく。
自分を例外とする所にある種の希望すら生れる。
死にいたるやまいは、、その発展型。孤独を直視した人間は、洞窟の価値を知って居る。内省の価値についてを、、、。
その孤独を軽視はしない。
その孤独は、認識を咀嚼する。
悟性として妥当なラインの判断を自分に決めて来る。
ロックはここを考えた。
その人物は、経験と換言を敢然と、した。
蓄積から整合性は判断する所は、確かにあるのかも、しれない。
場当たりと新しさはもしかしてハッキリと違う。
そして、現存在という概念にもリーチは届く筈。
今、生きないなら生者とは言えない。
死を称揚するなら死者に近く言える。
ほんとのメメントモリは、生き様を充実させる物なのに。
否定を否定して、肯定、いや、それは「行為的には否定をして」いる。
死をノーしても、駄目な、もんは駄目。
徳は、無いから❕
燃焼する決心は、武士道も騎士道も菊と刀も、五輪書も、しらないんなら、、聖書の影響も受けて、勤労な土着の農耕性へと閉鎖されていく。
ここを愛す根拠はほかを知らないから。
その様にして身近なものから、愛してしまう因業な癖。
さあ~~
諦めるくらいなら他山の地蔵ひとつ拝む為に登頂したって、、(・∀・)イイ!!自分の情熱侮るな?!
相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。