川上未映子の作風についての雑感、雑記、雑な、とても雑な話
面倒臭いあまり、肯定的に伝えようと思う。まあいいひとかも知れない。善悪の善というのはこの様に一瞬にして終わってしまう。これ程のもののあわれは、殺風景という他あるまい。
情趣はもはや要らないから置いておこう。
質料というのは形相とは違う。区別の用語としてかなり、常に違う。
川上未映子は、いつも形相にちょっと邪魔されて、質料に集中する。女性の特殊な処世術かなんかか、、。
本の大きさもなんかそういう風になっている毎回。
究極的な事の手前に耽美的に、なる。
情感というか、われにかえるらへんに、落ち着く。
そこらへんはスケールを中間に限定して居る。
美化の正当な手法としての効果はあるかもしれない。つまり、、前半に活躍した主人公の黄金期は「なんとなく残った」ままに、下卑た後味には成らないそこは結果的にいいっちゃいい、、、
漠然としたニュアンスの連続は、意図は功を奏しているのか、狙いと一致しているか、疑問や不明点としては多い。これも、面倒くさいあまり肯定、したい。
本題をそれて、欣喜雀躍出来るおせっかい爺婆らしさとしての成熟は、真実、感動的にあまりにもあさましい。
そして、それは面倒臭い事と言える。
この世から全てのリストラをなくすと、学生寮は決心したという様に、面倒くさい。
妥当なわからなさとして理解はしめしたくない。
そういう意見を言いたい。
あまりに面倒臭いときに雑にはなる。
雑感、雑記、雑味、雑誌、こう見てみても雑な物は多く、情報も雑に、記録も雑に、感情も雑に、味も雑に、文学ひとつ丁寧に出来たならコントラストとして、よかろうモノを、なかなか、そうは成らない。
女性らしく鷹揚に川上未映子も雑を受け入れている。
そこも雑に言うしかない。
相手の雑さに対して丁寧に雑にしたい。
鄭重に雑たれよ、という部分と言える。
そうして、その雑さに生活的意味を、言いたいという時にいよいよ、わたしは賛成や、肯定は難しく成る。
「雑にいいっしょ」
「雑にいいっす」
こういう損を、日本人はいくつして来たか。
そういう所に甘くされるのは、本人の為にもならない。
こうゆう時に司馬遷の完成の、頃の武田泰淳は、誠実さはとにかく欠かしていなかった。
厳しさを理解出来ないこと1個こっきりの原因から全てわからなく成る読者に一定の親切を示していた。
「優しいのに厳しくするの」
「正しいさ」
という風に。
善悪の大きな構図を捉えたというより、川上未映子にはこういう所の躊躇、戸惑いを、描写的にフラットに伝えたという具体的な有限の評価を、与えたい。