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【絆光記ネタバレ感想】光について語らなければならない者たちについて語らなければならない
「光」
「光について」
「私たちは、語らなければならない」
4月29日より、イルミネーションスターズの皆さんの物語を描いたシナリオイベント
— アイドルマスター シャイニーカラーズ公式 (@imassc_official) April 23, 2024
「絆光記」が始まりますよ~
イベントの予告動画をご覧ください♪
●開催期間
2024年4月29日 15:00 ~ 2024年5月9日 11:59(予定)#シャニマス #idolmaster pic.twitter.com/7Ew2z1QkD8
アイドルマスターシャイニーカラーズ新イベント「絆光記」について全員が語っています。全員、本当に全員。実際それだけ語りしろのある良いイベントコミュでした。例に漏れず私も語りたくなり、漫筆ながらポチポチ書いております。
以下、「絆光記」のエンディングを含むネタバレ
本文
まず、絆光記(はんこうき)というタイトルについて。これは反抗期(記)の同音異義語であるのと同時に「つなぐ・光について・しるす」、(人を)つなぐ光とも言うべき「言葉」を今回のシナリオのテーマにするよということなのかなと思います。冒頭で引用した「光について語る」と同様の意味合いでしょう。
イルミネの3人は現状の自分では語りえぬ、掬い取りえないところにいる人へ伝えるべき言葉を探している。このコミュの主人公というべき、イルミネに密着取材する“ルポライター”が求める言葉も性質は同じものです。影の中にうずくまる人、太陽の明るさを恨めしく思ってしまう人のための言葉を探し続けている。
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しかし、両者の視座の違いはルポライターによる独白として度々挟まる「白紙の文書」にて言及されていました。ルポライターからすればイルミネは太陽の側、自分達のような日陰の人間を無自覚に追いやってきた奴らに理解されてたまるものかと。
この、自分とは違う属性を持つ人間への不理解の姿勢は、おさらく作中映画の元ネタ(全然違う気もしますが)であろうサリバン先生とヘレン・ケラーの物語との対比になっているような気もします。
そうしてこの不理解の姿勢はルポライターがイルミネと交流し、思っていたより長い人生を生きてきた自分の素の心を見つめ直すことによって変化していきます。ここの変化はルポライターが人間であるからこそ、いつかはせざるを得なかった変化なのでしょう。その通時的な変化がサポコミュのタイトル「通じたい」→「通時態」と引っかかっているのかな。(サポコミュタイトルが「興じたい」と「通じたい」だったの、鍵開いた瞬間「俺にだけは意味伝わってます!!!」て声出しちゃった!(八宮めぐる))
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次に、このシナリオで取り扱われた「言葉」の多義性について。
我々はよく、良い言葉と悪い言葉というふうに言葉を分けてしまいがちです。言葉はそれそのものに陰陽や良い悪いの属性があり、それらをTPOによって使い分けているのだと。しかし実際、言葉というのは実に多様な価値のあわいを漂いながら、様々な意味を同時に内包するものです。
たとえば、灯織が道端で困っている女性に対して「手伝いますよ」と声をかけた。これ自体は立派で、社会的にも良しとされる行為です。しかし相手の女性はその言葉や行動に「感謝の強要」という言外の意味を見出し、それに拒否感を覚えてしまった。
イルミネがSNS上で非難の対象とされてしまった時期のめぐるとダンストレーナーの会話においても、この言外の意味、いわゆる言葉のサブテキスト的な文脈は多分に含まれていました。
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この会話においてダンストレーナーはさりげなくめぐるのメンタル面を心配し、めぐるもそれに気づきながらあえて言葉にすることなくそれを受け入れました。
他にも印象的だったのが、偽あさひです。
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道路で転んだらしきおばあさんを、「〜〜っす」という芹沢あさひの口調を模倣した何者かが助け起こすシーン。
偽あさひの口調は言葉遣いだけを見るとかなり乱暴でかつ失礼にも見受けられます。しかし、この場面を通して我々が受け取るのは言葉の外にある彼の人間性の素朴なあたたかみでしょう。
ここで私が思うのは、言葉それ自体に善悪があるのではないということです。
他人に対して言うべきでない言葉というのはもちろん存在しますが、それも社会生活において、もっと言えば共同体の倫理の中においてのみの話です。極論私たちに言ってはいけない言葉などなく、それが他人にどう影響を及ぼすのかすらも個々人の状況によって無限の可能性を持ちます。
そうして、個人的にこのイベントを通して一番好きだったのが次に貼る「白紙の文書」の言葉。
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社会的に否定される言葉、日陰の中にいる人間が光を呪うためだけに書いた言葉ですら、誰かを救い得る。言葉の持つ無限の可能性への祈りや、それを発する心に対する無際限の赦しを感じさせるセリフです。
言葉を善悪で裁くことなく、かといって正解に辿り着くことを諦めずに、相手を理解し理解されるための言葉を探していくしかない。
言葉がそのまま心を表すことはないと知りながら、それでもいつか心が通じ合うと信じる。
「絆光記」はそういう、シャニマスらしい優しい希望の詰まった素敵なシナリオだと感じました。
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最後に
「アイドルを輝かせる」理想を掲げるシャニマスというコンテンツにとって、「光の中にいない、あるいは照らされることを望まない人達にできることは?」という命題は避けては通れないもので、今までもそこを取り扱ったシナリオはこれまでいくつか描かれてきました。
包摂しきれぬ(するべきでない)闇に対して、それでも目をそらさず光の可能性を示し続けようとするアイドルたち。
彼女らのことを見届け、これからも語り続けたいと思います。
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