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Z世代の放浪者『戸籍』

夫婦別姓論よりももっと踏み込んだ問題として、戸籍廃止論が唱えられることがある。
そういう人たちは、戸籍制度のことを家畜の識別番号のように認識しているのだろう。

戸籍制度廃止派や夫婦別姓賛成派に私が反対する理由としては、領域としての意味合いが強い。
私は政治を、統治と切り離して考えている。
それは、統治を治者が被治者を秩序づけるものに対して、政治は対等なもの同士が相互に働きかけることによって、意思の決定を行うところにあるからだ。

そのような政治において、戸籍制度廃止派や夫婦別姓賛成派が軽視する苗字や家というものが一つの重要な要素であると考えている。

それは、公的領域である政治において、自分が何者であるかを示すものであり、名前がそこで重要な意味をもつのである。
名前や戸籍があることは、政治的な権利をうけるための礎となるのだ。

千と千尋の神隠しで、千尋が本当の名前を奪われ千という風に変えられただろう。
勝手な自分の想像であるが、名前を奪い千という風になることで、むしろ公的に示された「自分」が失われて、湯婆婆の元に雇用されるようになるのだろう。
自分が何者であるのか確かに世界に存在している証拠を奪われることにつながる。

また、日本において特に苗字が重視される理由は、
それまで、政治にかかわっていた士族階級しか持てなかった苗字というものが持てるようになったことが大きい。
苗字を得ることで、初めて公的に自分が存在していることが示されるのである。

選挙権を得られるようになるまで、
それまで平民、下層階級というものは、それこそ雇用・支配されるものであり、
上層階級の私的領域の中に隠される存在であった。

戸籍が被治者の識別番号であった側面ももちろん歴史的にはあるが、そうであると同時に政治的な権利の基盤として戸籍が機能する、そういった二面性があるだろう。

それこそ、千と千尋のような話であり、私的に統治される領域内の主従的な関係による識別番号と、公的に対等な扱いを受ける場との違いである。
呪術的にも、名は体を表すという言葉があるように重要な位置をしめているものだ。
その縛りが、私的なものであるのか、公的なものであるのかを分けて考えられるようになるべきだと思う。
(あだ名などもある意味で友人関係における縛りみたいなものだったりする)

少々話がそれたが、
そういう人たちには戸籍や、参政権といった、
先人が引き継いで与えてくださったものをもっと根源的なところから大切にしていってほしいと思う。

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