見出し画像

【短篇小説#3】 それでもなお

妻のユリエが一か月ぶりで戻ってきた。里帰り出産という大イベントからのご帰還だ。久しぶりにわが子を抱くと、妻子ってやつに包囲された気がした。こんな調子では先が思いやられる。家族3人での新しい生活がスタートした記念の夜だというのに。人としてここまでサイテーな気持ちになる理由はわかっている。

物音というか人の声が聞こえた気がして目が覚めた。家の外がざわついている。あわてて飛び起きカーテンを開けると目を疑う光景があった。女が門扉の前で仁王立ちして2階、つまりはボクの寝室をにらんでいる。深夜にもかかわらず隣近所の窓に次々と明かりが点き人の顔も見える。視線の先にあるのは女の白い裸体だ。その裸体のクチが動いている。
「ミイケ ユウイチさんとおつきあいしてまぁす! 幸せでぇす! うれしくてたまりませぇん! ユウイチさん大好きでぇす!」と叫んでいる。女はイトウさんだ。また同じ夢だ。どうしてこんな夢ばかりみるのか……しかし、おかしい。いつもは登場しない妻が隣にいる。ま、まさかの現実?
「ユウイチ、なにをしているの! 通報でもされたら困るわ、急いで!」
妻に促されて外に出た。衆人環視の大舞台の幕が開く。ボクらは目を交わし覚悟を決めるとイトウさんにタオルケットを巻き付け家に連れこんだ。仁王立ちしていた女は目的を果たしたのかおとなしくなった。一方でご近所さんたちのヒソヒソバナシはいつまでも収まらないだろう。奥さんに引っ張られて外に出てくるとは情けないダンナだね、あんな人が小学校の先生やってるなんて! そんな人には見えなかったけどね。それにしても最近の若い女は恐ろしい……のぞき見を楽しんだ彼らがそれぞれの職場で深夜の全裸女絶叫事件を思いきり脚色して語る姿が目に浮かぶようだ。

ふたりの女とボクは非常事態の当事者になっているというのに世間の反応ばかりが気になるいつもの自分を夢の中でもみつけてしまったことが頭に残った。

イトウさんはボクが勤める小学校に異動してきた教員の一人に過ぎなかった。でも、悲しいのかうれしいのか怒っているのかが読み取れない不思議な目に気づいてしまったときから何かが始まったのだと思う。そのうち、うわさ好きの同僚から彼女の身の上を聞かされる。数年前に夫とひとり娘を事故で亡くしたらしい。高速道路で多重衝突に巻き込まれ、運転していたのは彼女なのだという。それを知ったとき、毎夜訪れるひとりぼっちの時間をじっと耐えている姿が見えた気がした。肩を抱いて大丈夫だよと言ってやりたくなった。いつもなら他人の身の上には何の関心も抱かないはずなのに。同情が何よりも嫌いなはずなのに、勝手にイトウさんのことをかわいそうだと思っていた。この瞬間、自分でも気づかないうちに知らない道を歩き始めたのだ。イトウさんとボクは同じ6年生を受け持っていたので彼女の仕事ぶりはいやでも目に入ってくる。あらゆることをそつなく目立たず淡々と処理しているけれど、透けてくるのは彼女が抱えている闇の深さだ。

しばらくしてボクは彼女を目で追うようになっていることに気づいた。それは好意でも恋でもなかったはずだ。ただ意識してしまうのだ。彼女が何かしているのを見ると、瀕死の鶴とかが悲しみを押し隠して懸命にあがいて声にならない悲鳴をあげているように思えてしまう。彼女を見るとつらくなるのにどうしても見てしまうのだ。

ボクは仕事以外では人に関心を抱けないタチなので妻のユリエとの縁がなければ生涯ひとりでもそれなりに楽しんで生きていける確信があった。幼なじみで今も仲が良いヤスオの妹が妻のユリエだ。ボクはかぎっ子のひとりっ子だったが母親同士が仲が良かったおかげで毎日ヤスオの家に遊びに行き、妹のユリエとも一緒に遊んだ。小学校3年生くらいまでは風呂にも3人で入ったりして兄妹同然に大きくなったのだ。ユリエはボクの何が気に入ったのか幼いころからずっと「大きくなったらユウちゃんのお嫁さんになる」と宣言していたのでデートらしいデートもしないうちに本当に結婚してしまった。おとぎ話みたいだと自分でも思うことがある。純愛とか熱愛とか、そのあげくの嫉妬とか裏切りとかを知らないまま夫婦になった。ユリエと過ごす時間には陽だまりの心地よさがあった。こんな自分にはもったいないという気持ちは今も変わらない。

気がつくと3キロも痩せている。イトウさんのあの不思議な目を見たときから明らかに食事の量が減っていた。最初はダイエットできたと喜んでいた妻が真顔で心配してきたので体重を維持しようと無理して食べるようになっていた。

イトウさんの姿を目で追ってはつらくなるだけの日々が積み重なっていたある日の学年会が終わったタイミングで主任が声をかけてきた。
「ミイケ先生、そろそろでしょう? 予定日いつでしたっけ?」
なぜかボクは返事をする前にイトウさんを見てしまった。いつもの不思議な目の奥がわずかだが動揺していた。
「予定日は明日なので昨日から里帰りしてます」
「じゃあさびしいでしょう、ミイケ先生は愛妻家だから」
今までなら聞き流していた愛妻家という言葉にざわつく。それはボクがひねくれているせいだ。主任に罪はない。

忘れ物があり教室に戻ると、イトウさんが入ってきた。
「いつもわたしを見ていますよね」
単刀直入に切り込んでくる。思った通りだ。
「何が気に入らないんですか? はっきり言ってください」
ボクが悪意などこれっぽっちも抱いてないことは知っているはずなのに。
「勘弁してくださいよ。あなたの思い過ごしです」
「そんなお返事では納得できません。19時に来てください。個室を予約してあります」とメモを押し付けて出て行った。メモには高級料亭の名前と彼女の連絡先が記されていた。行くべきか行かざるべきか。いくらかでも迷ったというのはウソになる。彼女が一方的に告げた約束を守るという一択しかなかった。

いったん帰宅してシャワーを浴びて身支度をする。書店とかで時間を潰して直行すればいいものを自分は何を期待しているのか。小学校教員という職業柄いつも世間の目を気にして用心深く振る舞ってきたのに肝心の抑止力が機能しない。高級料亭の個室だから大丈夫と決めつけ、ユリエの里帰り出産中にまさかの密会を決行しようとしていた。

個室に通されると見知らぬ女が座っている、と思ったがイトウさんだった。制服化している濃いグレーのスーツ姿ではなく、黒のニットにグレーのカーディガンを羽織っている。イトウさんが色彩のある服を着る日はおとずれるのだろうかと、今考えなくてもいいことが頭に浮かんだ。
「人騒がせですね、部屋を間違えたかと思いましたよ。コンタクトだと印象変わりますね」
「いえ裸眼です。メガネは武装アイテムのひとつにすぎません。度は入っていないんです。黒ぶちメガネは重宝しますよ。一度かけてみるとわかります、みんな同じ顔になりますから」
と自分でも本気にはしてないような言い方をして澄ましている。
「わたしが多重衝突事故に巻き込まれたことはご存知かもしれませんが、そのときからお酒が飲めなくなりました。ほんとは大好きで毎晩夫と晩酌していました。その時間が何物にも代えがたいほど楽しくて一緒にいたようなものです。夫は転職してはすぐ辞めて長く失業するの繰り返しで経済的にはアテにできない人でしたけど、それでも幸せでした。それなのにあの事故がすべてを奪っていった。こんな目に遭わなきゃいけないくらいわたしは悪いことしたんでしょうか……すみません、よけいな話をしてしまいました。こんな話を聞いてもらうために来てもらったわけではないのに。実はお願いがあるのです。どうしてもあなたに引き受けていただきたい頼みごとができてしまったのです」
イトウさんはいったんは口をつぐんだがまた話し始める。

「話は少し長くなるかもしれないので食事を始めましょうか。わたしのこと厚かましいやつと思っておいででしょうが、実は小心者でして今夜はお酒の勢いを借りることにしたんです。もう二度とお酒を飲むことはないだろうと思っていたのですが、あなたと一緒に飲みたくなりました。どうかお付き合いください」
めちゃくちゃだと思ったが、速攻で代行を使おうと決めていた。残暑の夜に飲むビールの苦みが弱りかけている心身に染みていく。染みはどこまでも広がり始めて、ボクの輪郭を消そうとしていた。

とことん飲もうと覚悟を決めるとそれからは簡単だった。イトウさんにつられてボクにも人格変容が起きたのかもしれない。不思議な目を封印し悲鳴も上げなくなったイトウさんとの会話は弾み、この数か月の鬱屈が一気に溶けていくのを感じた。もっとこの空間に居続けたかったのに禁断の宴はあっという間にお開きになる。イトウさんはまたメモを押し付けると先に出て行った。メモにはホテルと部屋番号が記されていた。

ひとり残されると急に落ち着かなくなった。指定されたのは海辺の高層ホテルで自宅とは反対方向だ。直行することを選んだボクはどこに向かおうとしているのだろうか。

指定された部屋に招き入れられるとイトウさんはシャワーを浴びたのか髪が濡れていて、いまさらだが生身の女だったことを突きつけられた気がした。
「4月に赴任してからあなたがわたしを見ていることはすぐに気が付きました。死んだも同然のわたしなのにまだ見てくれる人がいることが不思議でした。それでも気づかないふりをした。何らかの関係ができたとしてもまた失うかもしれない。だから知らんぷりしておこうと思ったのです。でもあなたはわたしが無反応でもずっと見ていてくれた。そのことにぬくもりを感じているわたしがいました。そしてひとつの野心が生まれたのです」
そう言ってしばらくボクの顔を見つめていたがまた話し始めた。
「あの事故の賠償金を使いきってこの世とおさらばしようと決めていたのにあなたのせいでぐらつき始めた。そしてあなたから見ればとんでもないことを思いつきました。あなたの子どもを産むことにしたのです。その子を一心に育てることでもう一度生きようと思ったのです。あ、でも勘違いしないでください。認知とか要りませんから。あなたにとっては不本意な申し出でしょうが、どうかお願いします。ほかに生きるすべがないのです。わたしを見殺しにしないでください」
唐突すぎて言葉が出てこない。イトウさんは不思議な目に戻って全面ガラス窓の向こうの黒い海を見ていた。

ボクは何も答えられないままバスルームに入る。シャワーを浴び始めたこと自体が応諾の印として受け取られることを期待しているのか。ほんとは迷っていた。これほど切実な願い事をされたのは初めてでどんなことをしてもかなえてやりたいという気持ちもあった。だが、生まれてくる子どもはどうなのか。大人の都合で新しい命を創り出すのは許されるのか。

「チャンスは今夜と明日なのです。おわかりですよね、躊躇している場合ではないのです。時間がないのです。承知していただけるまで帰しません」
イトウさんの口調がすごみを増している。まさかのナイフを握った手が震えている。何なのだ、この展開は。

今思うとイトウさんは断れない状況を提供することでボクの言い訳を用意してくれたのだ。脅迫されたボクは二晩続けて関係を持った。子どもをつくるための共同作業に全力を注いだのだ。思いがけない報酬として甘美で濃密な世界を手に入れたけど、だからといってどこに向かえばいいのだろう。

表面的には日常が戻っている。イトウさんは相変わらず知らんぷりして不思議な目で働いている。ボクは何かしらの変化を期待して彼女を見るのだが、相変わらずのそっけなさを思い知らされては心折れる日々。仕事が終わって帰宅すると妻が里帰り中なのをいいことにイトウさんに連絡するのだけど既読もつかなければ電話にも出てくれない。用済みだと言われている気がした。

「あなた、起きて! お客様よ」
妻に揺り起こされる。ソファでうたた寝していたらしい。
玄関にはイトウさんが待っていた。
「上がっていただいたら」と促されリビングに案内する。
「夜分に申し訳ないです。突然ですが明日から休職することになりましてその報告とこれまでのお礼を申し上げたくてうかがいました」
イトウさんはお茶を運んできた妻に向き直ると
「本当にミイケ先生にはお世話になりました。異動してきたばかりで戸惑うことも多かったのですが、おかげさまで何とか働くことができました。これからも頑張ろうと思っていたのですが身内が倒れまして実家に戻ることになったのです。本当にお世話になりました」
イトウさんは立ちあがると深々とお辞儀をしてそのまま玄関に向かう。ボクには何ひとつしゃべらせないままに。そのとき、わかってしまったのだ。イトウさんはボクにさよならを言いに来たのだと。身ごもったことを確認できたので報告にきたのだ。
「お構いもしませんで」と妻の声がずいぶん遠くに聞こえた。そしてリビングに戻ってくる姿がスローモーションのように揺らいで見えた。安定した日常を屈託なく生きている妻ユリエのゆとりのある仕草が眩しかった。
「ごめんな」
そういうなりボクは家を飛び出していた。自分でも何が起きたのかわからないままイトウさんを追って走り続けていた。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?