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ドルフース=シュシュニック体制の始まりはいつであるのか

はじめに

注意点

以下の文章は、あくまでも私個人が書籍、インターネット等の情報を受けて書くものであり、正確性に欠ける場合がございます。

ドルフース=シュシュニック体制とは

さて、この体制の成立時期を考察する前に、まず「ドルフース=シュシュニック体制」とは何なのかを述べるべきだろう。
端的に言ってしまえば、オーストリアの戦間期後半の独裁体制を指す言葉である。「オーストロファシズム」もしくは「オーストリアファシズム」と言えば聞いたことのある方も増えるだろう。
「ドルフース=シュシュニック体制」とは、その名の通りエンゲルベルト・ドルフースとクルト・シュシュニックという二人の独裁者による体制である。この体制はイタリア・ファシズムの影響を強く受けているとされ、オーストリアでは左派からしばしば「ファシズム」として批判を受ける。上記のファシズムの語を含む二つの呼び名も、主にオーストリアでは左派が用いる呼称である。だが、私は左派ではないし、なによりこの体制がファシズムであるかどうかは未だ確定的ではない。よって本記事ではドルフース=シュシュニック体制の語を用いる。
閑話休題。この体制はイタリア・ファシズムの他にも、カトリックからの強い影響もある。具体的には、ピウス11世の教皇回勅「クアドラゼジモ・アンノ」を体制の根拠としている点、オーストリアナチのクーデター未遂である七月一揆で暗殺されたドルフースのレリーフが、ウィーンの聖ミカエル教会にあるなどである。これは、オーストリアという国家が伝統的にカトリックに篤い国家であったことと、ナチに抵抗するための、プロイセンに統一されたドイツではない「独自のドイツ性」を追求したが故だろう。
他にもさまざま書きたいことがあるが、今回はあくまでドルフース=シュシュニック体制の成立時期についての考察であるため、ここらで体制の解説はやめたいと思う。
まとめると

  • ドルフース=シュシュニック体制は二人の独裁者によって、戦間期後半のオーストリアに成立した体制

  • ドルフース=シュシュニック体制は、イタリア・ファシズムの影響を受けている

  • ドルフース=シュシュニック体制は、カトリックの強い影響があった

この三点だろう。これらを基礎知識として、次より本題であるドルフース=シュシュニック体制の成立時期はいつなのかという考察を行っていく。

成立時期はいつなのか

1933年3月4日説

この1933年3月4日説の根拠は、同日に開かれた国民議会をドルフースが封鎖したことである。
1933年3月1日に連邦鉄道職員のストライキが発生し、そのストライキの責任者に対して政府が課した制裁の賛否を巡って行われたのが同月4日の国民議会の特別会であった。この特別会では、投票の際に形式上の不備が生じ、議院規則上の問題が発生、結果国民議会の3人の議長が職務を放棄、すなわち辞任することとなった。議長全員が辞任した際の規定が当時のオーストリアには存在しなかったため、ドルフースはこの危機を利用し国民議会を封鎖、戦時経済授権法に基づいた政府命令の独裁を始めるのである。
その後、国民議会の開催を求める行動もあったが、ドルフースに阻止され、再び国民議会が開催されたのは戦後になってからであった。
この出来事をドルフース=シュシュニック体制の始まりと捉えることもできるだろう。

1934年2月12日説

この説の根拠は、1934年2月12日の二月内乱の鎮圧をもってして、オーストリア社会民主党(SDAP)が壊滅に等しい状況になったことである。
SDAPは、与党キリスト教社会党(CS)と右派準軍事組織である護国団の政治部門、郷土ブロック(HBL)に支持されたドルフースの独裁に、当初から反対し続けていた。
政府は、テロ行為の後にすぐに活動を禁止したオーストリアナチとは対極的に、SDAPには段階的にその力を削ぐ戦略、いわば挑発のような行動をとった。その集大成と言えるのが、1934年2月12日のリンツの党事務所の捜索であった。これに反発したSDAP所属の武装組織、共和国防衛同盟の構成員が銃を取り警察に発砲、反乱の噂は各地に広まり、ウィーンではカール・マルクス・ホーフなどに立てこもり、連邦軍、警察、護国団などと戦闘した。鎮圧後にSDAP党員や共和国防衛同盟からは多くの逮捕者がでた。
この二月内乱の失敗は、オーストリアに民主主義を取り戻す可能性のあった政党であるSDAPの壊滅によってドルフースによる独裁の完成とドルフース=シュシュニック体制の始まりとみなすことができるだろう。

1934年5月1日説

最後のこの説は、1934年5月1日に新憲法(5月憲法)が施行されたことを根拠としている。
この5月憲法には、政治体制のあり方や、政策の決定方法、立法について、そして最も大切な職能身分制原理が明記されている。
これらはどれもドルフース=シュシュニック体制の根幹を成す要素であり、この5月憲法を始まりと捉える論調もある。
この5月憲法は体制を規定したものである為、1934年5月1日をドルフース=シュシュニック体制の始まりだと考えることもできるだろう。

最後に

さて、本記事では私の考える3つの説を提示してみた。現状の私にはこれら3つの説のうちどれが正しいか判断する知識は無い。もしかしたら、3つの説全てが間違っているかもしれない。しかしながら、私の稚拙な記事を読んでいただき、この戦間期オーストリア或いはドルフース=シュシュニック体制に興味をもってもらえたならば幸いである。また、今後本邦にてこの時代のオーストリアの研究がさらに発展し、多くの書籍が刊行され、多くの人が知るところになればと心から願い、筆を置く。


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