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浅い海で遊んだ子

 海。
 長く東京近郊に住む私が知っているのは、半世紀も前、5年足らずのあいだ暮らした瀬戸内の遠浅の海で、夏の盛りに足を入れても冷たくはなく、沖を見晴るかしても青くはなく、一般的に想起されるような海のスケールは持っていなくて、中国の人に「日本にも大きな河があるのですね」と言われたというのも、案外ジョークではないのではと思う。
 浜辺で足首に感じる波は、前へ後ろへと同じ調子でするすると動き、少しずつ立つ場所の砂を持っていく。沖を背にしていると、突然かかとの下の砂地が崩れ、がくっと後ろに尻餅をつきかける。驚いて、きゃあーとはしゃぐ。私は幼く、それを危険と認識できなかったが、実際その同じ浜でくぼみに足を取られ、水深15センチもない場所で、身体を反転できぬまま溺れてしまった子どもがいたのだそうだ。

 「死んじゃったのよ」と言われても、ただ毎日があるだけで、繰り返す波の動きを追うだけで、楽しく時を過ごしていた幼児には響かない。生きるとか、生きているとか死んじゃったとか、それはおはなしの中のこと。

 お話は大好きよ、「わたしの本当のお母さんはね、南の島の恐竜に食べられて死んじゃったの」。

 しばらくして、私はもらわれてきた子らしいと噂が立った。ご近所の誰彼かまわず「わたしのホントウのお母さんはね」と悲しげな顔で言い回った挙げ句の果てに、本当の母を相手にお話を開陳した。
 私はたいそう怒られた。母はどうにも恥ずかしかったようだ。嘘をつくのは悪いことだ、うそっこのお話をよその人に喋ってはいけないと、一度はきつく言い渡されたのだが。
 「そんなふうに親が叱るから日本には面白い作品が生まれない」と、私を庇ったのが父方の祖母だったことを、後年、母から聞いて知った。「想像力の芽を摘むな」「嘘をついて何が悪い」「大人はみんな嘘をついているではないか」。諄々と姑に言って聞かされた当時の母は、「それもそうか」と存外素直に受け止めたらしい。以降、私は嘘つき放題の幼年期を送ることになった。

 祖母は、幼子を見れば目尻が下がるといった年寄りではなかった。

 こんなことがあった。
 一緒に海沿いの道を散歩中、うっかり足を滑らせ堤防の外側に落ちかけた私をそのままにして、祖母は1人で帰宅してしまった。通りすがりの若いお母さんが泣き叫ぶ私に気づき、拾い上げて家まで送り届けてくれたのだが、祖母は居間でお茶を飲んでいて、不思議なものを見るような顔をこちらに向けた。そんな風に出迎えられ、私は何もなかったように振る舞うしかなくなって、いつもの一人遊びを始めたのだった。

 勉強がよく出来て才走り、お前が男であったらと父親に再三言われたという祖母は、大正期に女子師範学校を中退して祖父と結婚、やがて夫の仕事の都合で阪神間に移り住み、50年近くの歳月を瀬戸内海に面した土地で送ったが、関西弁を喋ることはついぞなかった。
 祖父が亡くなると未練なく家を処分して、東京に居を移し数年暮らし、避暑に出かけたある7月、信州であっけなくみまかった。

 私が足を取られそうになりながら楽しんで遊んだあの遠浅の海で、同じ浜で、溺れて「死んじゃった」のは祖母の長男、即ち私の父の兄だった。
 洋一という名付けが悪かったという人もいたらしい。以来、我が家では水に通じる字を名に持つ者はいない。
 昭和50年代、一帯は埋め立てられ、浜は消滅した。

 3年前、実家じまいの片付けで、8歳で亡くなった伯父の同級生が書いてくれたと思しき追悼文集が見つかった。祖母がとっておいたそれを、捨てる役目を引き受ける者はいなかったのだ。私の父も、母も、そっと天井裏に押し込めて、忘れたままで逝ってしまった。

 分かりました。私がしますよ、おばあちゃん。

 海から遠く離れた土地で、火にくべた。

#わたしと海


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