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「楽園の庭」第七話(最終話)

「オレは今年はもう、現場にゃ出ない。経営者オンリーで行く。後は吉野に任せた。半分、引退だ」

 ざわめきが起きた。何でだ?

「笛子に勝ったじゃねぇかよお」

 三治さんが戸惑ったように言った。思いは皆、同じだった。

「新米相手に勝ったくらいでやれてるたぁ思わねぇよ。足腰にガタが来てるのは、自分が一番よく承知している。潮時だ」

「じぃじは引っ込んだ方がいいのよ」

 と、奥さんが笑わせた。

「そういうことだ。今年は例年以上に、収益を重視するから、お前らもそのつもりでいろ。以上」

 座の緊張がドッと緩んで、また、皆が盃を傾け始めた。

「笛子、酌をしろ!」

 親方の一声に、笛子はビール瓶を持って、職人たちの間を回り始めた。オレは、ふと気づいた。オイさんがまだ挨拶してない。

座の中程にいるオイさんを見ると、コップが伏せたままになってた。「オイさん………?」

オイさんと目があった。オイさんはちょっと困ったようにへらっと笑った。

すぐに吉野さんが声を出した。

「袴田、挨拶しろ」

「ウッス」

 オイさんが立ちあがった。オイさんは妙に改まった顔つきでまず、親方に頭を下げた。一旦乱れた座に、また、神妙な空気が流れた。リビングの向こう側のソファでは翠堂さんが持参したワインを飲んでいた。あぐらをかいた親方が、口火を切った。

「袴田は竹井造園を辞める。みんなと会えるのはこれが最後だ」

 オレは呆然とオイさんを見詰めた。そのオイさんが口を開いた。

「自分の友人がバリ島でホテルをやることになりました。そこの庭を日本庭園にしたいのだが、お前、手伝ってくれないかと言われまして。かなり悩みましたが、ここは心機一転、別天地で出直す気になりまして、こちらを退職することにしました」

 オレの耳にはオイさんの言葉は、遠く響いた。

「親方をはじめとして、皆さんには感謝の気持しかありません。本当にお世話になりました。今夜はとことん飲ませて頂きます」

「賑やかに送り出してやろうじゃねぇか」

 吉野さんが立ちあがり、オイさんに歩みよると、コップを持たせた。そして、自ら酌をした。オイさんは一気に麦酒を飲み干した。オレはソファの翠堂さんを見た。翠堂さんも喉を見せて、ワインを飲んでいた。親方は表情を変えず「水が変わると体をこわしやすいと言う。ま、気をつけろ」と言った。奥さんが「漬けた梅があるから持って行って。食べ物が口に合わない時は、梅干しが一番だから」と微笑みながら言った。

 笛子の隣りに座っていた浅尾が少し強張り、オレに低く聞いた。

「知ってた?」

「いや、知らなかった」

「翠堂さんは知ってたのかな」

 そう笛子が聞いた。三人揃って、ソファの翠堂さんを見た。既に酔った職人らが、女王様に仕える配下のように翠堂さんの足の辺りに集まって、さかんに冗談を言っていた。翠堂はカラカラと声を上げて笑っていた。

「知ってたんだよ、きっと。全部」

 そう笛子が呟いた。

オレと笛子が親方を訪ねた日、オイさんはきっと、バリ島行きの話を親方に打ち明けたのだろう。親方は翠堂さんと別れる気か、と、問い正した。オイさんは頷いた。あのおでん屋にいた妻との暮らしを選んだのだ。だから、けじめとして、竹井造園は辞める。そういうことだ。

 笛子はビールのコップを空にすると、一升瓶を抱えて日本酒を注ぎグイグイと飲んだ。

「こら、酔って正体なくすなよ」

オレがたしなめると「今夜は気を失うまで飲んでやる」と真剣な目で答えて、オイさんに群がる職人らの間に割って入っていった。浅尾も急いで続いた。オレももちろん従った。

三治さんがオイさんの前で嘆いてた。

「オイさんよぉ。これから馬の予想、誰とすりゃいんだ」

「馬もパチンコも自力でやらなきゃダメですよぉ。けど、オンナは任しておいて下さい。バリ島で可愛い娘、見つけておきますから、遊びに来て下さいよ」

 浅尾が乗り出した。

「おれらも遊びに行っていいですか」

「おおよ。来い来い」

 オイさんは既に酔っていてダミ声になってた。

「来い。祐二も笛子も来い」

 と、笛子がオイさんににじり寄った。

「オイさん、わたしはオイさんのこと、ちょっとだけ好きだった」

「オレも好きでした」

浅尾も負けじと打ち明けた。ま、浅尾がゲイだとはオイさんは気付いてないだろうけど。二人を見返すオイさんは、いつもに比べて生気がなく、老けて見えた。

「生き方なんてもんは変えられねぇと思ってた。住むとこ変えたくらいで人の性根は変わらねぇしな」

「………」

「けど、生きてるうちに一回くらい、人のためになることをしてもいいかと思ってな」

 人って言うのはオイさんの妻のことだし、翠堂さんのことなんだろう。二人それぞれのために、オイさんはバリ島行きを決めたんだ。

「オイさん、そんなの全然らしくないよ。人のことなんかほっといて、テキトーに生きたらいいじゃん。オイさんはそもそもダメなやつなんだから」

「こらぁ。いじめるなよ。笛子よぉ」

 オイさんが弱く笑った。

「オレは」

 喉が詰まって細い声しか出なかったが、オレは絞り出した。

「オイさんの云ってくれたことが、笛子に育ててもらえってことが、ちょっとずつ分かって来て……オイさんは、だから、オレの恩人で」

 横から、浅尾がいきなりオイさんの手を握った。

「オイさん、幸せになって下さい」

「浅尾の馬鹿、もう、オイさんと飲めないみたいじゃない」

「かもしんねぇぞ。笛子」

オイさんが目をしばたたかせて、名残惜しそうに部屋の中を見回した。

「最後なんてことはないですよね。オイさん、また帰ってきますよね」

 言ってすぐにオレはしまったと思った。こんな日は、何でもない日の飲み会のように、重たいことは口にしないで、さらっと終えるのがいいのに。

「嫌だ」

笛子の顔が歪んだ。

「わたしが現場、一日も休まなかったのは、オイさんがいてくれたからよ。祐二が怒鳴るのを無責任にへらっと笑っててくれるオイさんがいたから」

 笛子の声が次第に湿っぽくなっていった。

「習ってないことたくさんあるのに。まだまだ教えて欲しいこと、たくさんあるのに」

「てめえら何だ。オイを終わった人間みてぇに言うんじゃねぇ」

 オイさんも湿った声で答えて、手前にいた笛子をいきなり、がっしと抱き寄せた。

「オイのストライクゾーンがもちっと広かったら、お前をオイのオンナにしてやったのにな」

笛子は「ヴー、ヴー」と唸り出した。いつものやつだ。

オレが笛子をオイさんの腕の中から引っ張り出そうとした途端、いきなり、オレたちは突き飛ばされた。ひっくり返ったオレたちを蹴って、グイと前に出たのは翠堂さんだった。

「行かないでよ」

 翠堂の一言にざわめきがスーッと引いていった。

「行かさないから」

翠堂がオイさんの腕を掴み、大きく揺さぶった。駄々をこねる子どものように翠堂さんはオイさんの腕を離さなかった。

と、急にマイクのキーンと響く音が聞え、いきなりカラオケの前奏が流れ出した。見るとソファの脇で親方がカラオケのマイクを握っていた。

「袴田、来い!」

 流れ出したのは北島三郎の「まつり」だった。

「来い!」

と親方。

「行かさない!」

とオイさんを掴んだ翠堂さん。

「あー、まつりだ、まつりだ。よー」

 親方はがなるように歌いながら大股で翠堂さんに近づいた。そして。オイさんを掴んでる手を引き剥がそうとした。翠堂さんは暴れた。片手に持っていたワイングラスの中身を親方にひっかけた。

 親方はワインを頭からかぶって、濡れネズミになりながらも歌い続けた。吉野さんがやって来て、オイさんの腕を掴む翠堂さんを引っ張って離した。すると、オイさんが「オイも歌うぞぉ」と叫んで立ちあがり、上着を脱ぎ、シャツを脱ぎ、上半身、裸になると、もう一本のマイクを握って、親方と並んで歌い始めた。親方は慌てた奥さんが持って来たタオルで顔にかかったワインをぬぐうと、マイクを投げ捨て、オイさんの顎を拳固で殴った。オイさんは吹っ飛んで、こも樽の上にぶっ倒れた。

「ええい、飲むぞぉ」

吉野さんも吠えて、こも樽の上のオイさんを突き飛ばし、柄杓にすくってごくごくと飲んだ。

オレは酔いが急に回ってくるのを感じた。オイさんのいない現場がリアルに頭に浮かんだ。駄目だ。寂し過ぎる。オレに仕事のいろはを教えてくれたオイさん。すけべで格好良くて、でも、だらしないオイさん。吐き気がするほど、オイさんには嫉妬したけど、今もしてるけど、嫌いになれてない。胸の奥から熱い塊がせり上がって来て、オレもじっとしてられなくなった。

「脱ぐぞぉ」

 上着を脱ぎ、ズボンを脱いだ。浅尾が「オレも行きます!」と、叫んで、裸になった。あとはもう無茶苦茶だった。あっちこっちで脱いだり、飲んだり、食ったり。殴ったり、肩を抱きあったり。歌うものも大笑いするものもいた。笛子は全裸になった職人の尻をスリッパで叩いて泣きながら大笑いしていた。オレは飲めるだけ飲んだ。あんなに飲んだのは生まれて初めてだった。

 オレの記憶は、オイさんとキスをして、浅尾に殴られたところで消えている。


翌日、目が覚めたのは夕方だった。頭がガンガン鳴っていた。酷い二日酔いだ。胃腸薬とインスタントのしじみの味噌汁を飲んでから、笛子にラインを入れた。

「これから、そっち行ってもいいか」と。

 なかなか既読にならない。オレはさっさと着替えて、外に出た。冷たい霧雨が降っていたが、かまわずカブに乗って、笛子のアパートへ向かった。

 ドアをノックしたが、返事がない。オレは冷たく凍えた指で、もう一回ラインを送った。

「今、玄関にいる。出て来い」

 ややあって、不機嫌を絵に描いたような笛子が顔を出した。

「わたし、死んでるの。明日にして」

 笛子も多分、ひどい二日酔いなんだろう。だけど、オレは引かなかった。

「駄目だ。今じゃなきゃダメなんだ。入れろ」

 オレは渋る笛子を押しのけるようにして、強引に部屋へ上がった。思った通り、殺風景な部屋だった。オレの真似をしたのか、壁に庭の見取り図が数枚、貼ってあって、エアコンの風にさわさわ揺れてた。

「頭、痛いんだよね」

 笛子は顔をしかめている。オレは大事なことを切り出す前の、地ならし的な話題が必要だと思った。オレの苦手分野だが、やるしかない。

「あのみかんの木、どうなった?オイさんがくれたやつ」

「見る?」 

 笛子はベランダのサッシを開いた。オイさんがくれた時より、ひと回り大きな鉢に植え替えられたみかんの木があった。背丈はオレの顎の高さくらいになってた。

「育ったな」

「枯らさないように一生懸命やったのよ。水のやり過ぎが一番怖かった」

「うん」

「でも、これ貰った時に祐二が言った苗木の時間っての、ちょっと感じたな」

「うん」

 覚えている。あの時は格好つけてたよな。今も同じだけど。

「あの庭のことだけど」

 早いこと、本題に入ろうと、オレは声を少し大きくした。

「お前がチューリップの球根を、ガンガン投げ入れた庭」

「おばあちゃんの庭のことね」

「ああ、あれを一緒に見に行こうって言おうと思ってた。あんだけの数の球根がちゃんと花を咲かすとしたら、すげぇ綺麗だろうからな」

「うん。いいよ。行こうよ。飛騨の春は本当に花が素敵だよ」

「………待てねえんだ」

 オレがちょっとかすれて言うと、笛子は首を傾げた。

「あの庭で言うつもりだった。天国みてぇな花園で。けど、まだ、一月じゃねぇの。花の咲く四月まで、オレは我慢できねぇ」

 笛子はまだ、怪訝な顔をしている。

「オレはお前と………」

 何とか決めたかったが、喉はからからに乾くし、顔は強張るし、頭がぐるぐる回って考えられないし、もう、半分、ヤケクソだった。

「付き合いたい」

「………」

「割と最初から、いいな、と思ってた」

「あのさ。それさ」

 笛子がこっちの話が終らないのに、入り込んで来た。それもやたらと機嫌悪く。

「オレに言わせろよ」

「その前に答えてよ。祐二はわたしの教育係だってことに、やたらこだわってたよね。高山まで迎えに来てくれたのも、そういう責任感からだったの。それとも、特別にわたしを心配してくれたからなの」

「両方だよ」

 笛子がムッとした顔をした。

「わたし、そういう、どっちもありみたいな事言うオトコ、嫌いなんだよね。そういうやつって、いざとなると好きじゃなかったすよ。あれは仕事だったからで、とかって逃げるじゃない」

 オレは面倒になったけど、ここは我慢だと自分に言い聞かせた。

「迎えに行ったのは、半分仕事だった。けど、今日、ここにいるのは、百パーセント、プライベートだ。百パーセント、付き合ってくれって言いに来た」

「………」

「オレは春までなんて、待てない」

 もう限界だった。笛子の肩を掴んで、引き寄せた。シャンプーのいい匂いがした。オレは笛子にキスをした。

 笛子はすぐに離れた。

「ちょっと待ってよ。同じ会社にいて、付き合ったりして、 現場とかでも困らない? 」

「うるせぇ。何でもかんでも、言い返すな。オレとお前のこと、文句言うやつがいたら、おれたちは完璧な二人なんだから黙ってろって、おれが言う」

 もう一回、キスしようとしたら、笛子が急にしんなりとなって、オレを見た。

「ちゃんと言いなさいよ。私のこと、どう思ってるのか」

「いいから、しばらく黙ってろ」

 オレは又、唇を重ねた。今度は長いキスだった。ずっと、こうしたかったんた。ずっと、前から。笛子の唇の感触を確かめながら、あの何百個という球根全てから、花が咲いた庭を夢想した。チューリップだけじゃなくて、水仙や枝垂れ桜、桃や木蓮や山帽子とか、あそこに植えてあるあらゆる花が、私が一番と言わんばかりに競って咲き誇ったら、あそこは本当の楽園になる。あそこへ行ってみような。笛子。必ず。いや、その前に、このキスが終ったら、ちゃんと「好きだ」と言おう。

                            ―了―

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