見出し画像

「楽園の庭」第三話

この日は事務所からトラックで三十分ほど走ったところにある浄蓮寺というかなり大きな寺院の庭の手入れが仕事だった。

境内の庭にツツジなどの玉ものが何十個と並んでいる。一日目はそのツツジ類の刈り込みが主な作業となる。この日も吉野さんはオレたち、二軍組の作業に参加していた。つまりはこの寺は「竹井造園」にとって、軽んじてはいけない現場なのだ。

刈り込みの手順は次の通り。まず、ザッと刈る。次に掛かり葉をふるい落とす。仕上げに飛びだした葉を刈る、だ。

「笛子、粗刈りして来い!」

オイさんの指示が出た。最近は笛子もこうしてハサミを持たせて貰えるようになった。教育係としては、嬉しい進歩なのだが、当然、別の課題も出て来る。笛子はどうしても刈っては眺め、眺めては刈り、と仕上げを気にしてしまうのだ。だから、目が離せない。即、怒鳴ってやる。

「一々見てんじゃねぇ。さっさと刈れ!」

それでもモタモタしてると、浅尾もきっぱり言う。

「笛子さん、粗刈りですよ。余計なことは考えないで」

 職人に求められているのはスピードなのだ。出来る職人は動きに無駄がないってことだ。駄目押しのようにオイさんも怒鳴った。

「音を聞け。音を」

オイさんの言う通り、このオレだって、全身ぐっしょりになりながら「シャキシャキシャキ」と軽快に刈り進んでいる。もちろん、浅尾もだ。と、何を思ったか、笛子がオイさんの後ろに立った。背中に耳がくっつくほどの距離まで近づき、オイさんのハサミの音を聞いている。もちろん、また、オイさんに怒鳴られた。

「邪魔くせえぞ。離れろ!」

 しかし、暑い。十時休憩の頃には、作業着の上まで汗が滲み出て、顔からも滝のように汗が流れ落ちた。

 ところが、本堂脇にある控え室は別天地だった。エアコンが入っていたのだ。いつもの現場なら、昼休憩時には日影を探して弁当を食い、タオルを頭にかぶせて体を休めるのがせいぜいだ。熱中症が怖いから、他の季節のようにうっかり昼寝も出来ない。しかし、ここの住職は親方と同級生だとかで、特別に職人によくしてくれてる。

 ここでも笛子の動きはおかしかった。オイさんの横にびったりくっついて座り、笛子が作った弁当を食べるオイさんをじっとり見詰めている。笛子の手製弁当のおかずは鶏のから揚げと牛肉と玉ねぎの炒めものと卵焼きだった。発汗を考えた上の塩分濃いめの思いやり弁当だと、笛子は愛想なく説明した。

「袴田。どうだ。笛子の弁当の味は」

 吉野さんは半分ふざけている。

「ま、六十点てとこですかね」

 オイさんは面白くもおかしくもないと言った様子だ。

「もうちょっと、色つけてやれよ」

「甘やかすとつけあがりますから。笛子は」

 笛子は何を考えてるのか、ずっと、仏頂面だ。だが、オイさんが食べ終わると、オイさんの前に灰皿を置いたり、妙に甲斐甲斐しい。

真向いでコンビニ弁当を食べている浅尾も当然、気づいている。顔面には「怒」の字が浮かび上がっていた。オレだって笛子の思惑が全く読めず、眉に立て皺が入ってしまう。それを知ってか知らずか、笛子は図太くオイさんに話しかけた。

「オイさん、今度、飲みに行きましょうよ。映画の仕事してた時のこととか、聞かせて下さい」

「おめぇみてぇにでかいのと飲んでも、酒がまずいだけだ」

 オイさんはそっけない。

「今週がダメなら、来週。空いてる日、教えて下さい」

「しつこいな」

「はい。わたし、めげません」

 とうとう吉野さんが笑い出した。

「マジで袴田に惚れたのか。笛子。こいつは案外、競争相手多いぞ」

「分かってます。敵が多いとわたし、燃えるんです」

 笛子がニコリともしないで答えた。聞くに耐えないと言いたげに浅尾が席を立った。オレは笛子を正面から睨みつけてやった。


 黙ってはいられなかった。作業を終えて事務所へ戻ると、オレは間仕切りで区切られたトイレの前に笛子を押しやって、地下足袋の足を手加減しながら蹴った。

「てめぇ、浅尾の気持ち聞いといて、何やってんだ」

 凄んでみせるが、並ぶと笛子の方が背が高いので、威圧感が大きい。オレは意地になって、声を張った。

「舐めた真似すると、このやろ。殴るぞ」

「へえ、そういう事言うんだ。奥さんにパワハラされたって言いつけようっと」

 完全にこいつに遊ばれてる。オレの顔の「怒」の字も多分、グンと大きくなったと思う。

「祐二、今夜、時間あるか」

 間仕切り越しに、ホワイトボードの前にいたオイさんが声をかけて来た。

「あ、はい」

 オレは慌てて、笛子から離れた。

「笛子がしつこいからよぉ。しょうがねぇから飲みに行くか。お前も浅尾を連れて来い」

「はいっ」

 大声で返事したオレに向かって、笛子はニヤリと笑った。

「こういう流れになんのよ。あんたって、ホント見えてないオトコね。バーカ」

 言い捨てて、笛子は先に立って事務所を出た。

やっとわかった。

要するに笛子は浅尾がオイさんに接近するチャンスを作れるよう工作したのだ。小賢しいマネしやがる。オレはむかついた。

以前も四人で行ったことのある居酒屋で飲んだ。オイさんは陽気に、映画の仕事をしていた頃のことを話してくれた。

オイさんが担当していたのは、助監督と言うポジションで、監督の下であらゆる雑用をこなしていたそうだ。大作と言われた映画にもよく参加したとか。中国ロケでは、中国のずっと北の辺鄙な町に滞在した。食事が物凄くまずく、東京へ電話をしても、五回に一回しか繋がらなかったらしい。けれど、ニュージーランドロケで行ったゴルフ場は、言葉の通り、ため息が出るほど緑が綺麗だったそうだ。タイロケでは街角に立つ少年の男娼がみとれるほど美しく、あやうくよろめきそうになったと楽しそうに話した。このエピソードを聞いた浅尾は露骨にうろたえて、ハイボールを盛大にテーブルにこぼした。

 適当なところで切り上げて、四人はカラオケボックスに場所を変えた。オイさんはひどい音痴で、中島みゆきを歌った。長淵剛も歌った。笛子はどんどん誉めて、ドンドン飲ませた。

「オイは酔ったわ。最後に一曲ずつ歌って解散だ」

 そう言い残して、オイさんはトイレに立った。笛子は赤く濁った目で選曲している浅尾の頬を軽く叩いた。

「じゃ、わたしたちは消えるから、浅尾は残って、何とかオイさんとキスしちゃいなさいね」

「え、いや、え、ええっ」

 浅尾は狼狽し素っ頓狂に叫んだ。

「オイさんは酔ってるから、押し倒せばイチコロよ。抵抗するようなら、二、三発殴っていいから。とにかく、キスすんのよっ。頑張れっ」

「いや、そんな、え」

 浅尾は酒で赤くなった頬を一層紅潮させて、ぶんぶん首を振っている。笛子はそれを無視して、オレの腕をつかんだ。

「さ、わたしたちは消えるよっ」


 笛子は独りで帰れると言ったが、オレは、アパートまで送ると言って、笛子のアパートのあるS駅で一緒に電車を降りた。なまぬるい風が吹き抜ける歩道を並んで歩いた。

「浅尾、ちゃんと迫れたかな」

「笛子」

 オレは取りあえず、足を止めた。

「浅尾に代わって、礼を云う。今夜のことは、ウッス」

 もう酔いは醒めていた。笛子は面白そうにオレを見た。

「そんなのいいよ。ただ、浅尾は多分言わないけど、今までに凄く辛い時期が何回もあったんだと思う」

オレはそこまで気が回ってなかった。現場仕事にしか頭が行ってなかったから。

「考えてみりゃ、ゲイってのも大変なのかもな」

「進みたいのに進めない壁があるだろうからね。じっと考えてばかりだと、どっちが前なのかもわからなくなるしね」

 オレはちょっと迷ったが、口に出した。

「なあ、笛子。お前も何か辛いことあったんじゃないか。中学で」

「……」

「話してみろよ。聞くから」

 ちらりと笛子の横顔を見て、オレは少し、ドキリとした。こいつは、現場以外のところで見ると、案外、オンナっぽい。

「そうだな。話そうかな………」

 丁度、通りかかった空っぽの駐車場に足を踏み入れた。車止めのところに行って、笛子は腰を下ろした。オレも並んで座った。 

「相当きつかったんだ」

 笛子はそう前置きして、中学校の教師をやっていた時の事を話し始めた。


「わたしね。自分でも熱血教師だと思ってた。教壇に立つのは凄く楽しかったし、生徒たちも可愛くてね。だから、積極的に悩みの相談にものったし、教科の指導も丁寧にしてた。その事件はね。本当に降ってわいたように起きたの」

一月の末、三年の担任だった笛子は卒業式を控えて、そわそわしだす生徒に目を光らせていたそうだ。

で、その日は、部活の指導を終えて、体育館から校舎へ戻ろうとしてた。

そこに市川華怜と言う生徒が来た。制服の上に紺のピーコートを羽織って。長身で際立って美しい容姿の子で、少女向け雑誌の読者モデルもやってる目立つ生徒だったとか。

「どうしたの。市川さん、こんなところで」

 笛子の問いに市川華怜は特上の微笑みを浮かべたらしい。

「先生に話したいことがあるんです」

 そして、笛子に近寄り、笛子の手をつかんだ。笑ったまま。華怜はその手をコートの下の自分の胸の膨らみに持って行った。そして、自分の手を離した。自然と笛子が華怜の胸を掴んでいる格好になった。途端、シャカシャカシャカとカメラのシャッター音が聞こえた。華怜の後から、スマホで笛子を撮影する華怜の同級生の女子がいた。笛子はもちろん、すぐに手をどけが、何枚かは撮られた。

「そん時は何が起きたのか、よく分らなかったんだよね」

 事態は、翌日、動いた。笛子が登校すると、すぐに校長室に呼ばれた。そこには校長と教頭と学年主任と華怜の担任教師がいた。

見せられたのは「河合先生が市川華怜さんの乳房に無理矢理触っている写真」だった。

「性同一性障害の方を責める気はないんですよ。でも、無理やり接触するというのは犯罪行為です」

 華怜の担任教師である女性が、罪人を見るようにして笛子に言ったそうだ。


「つまり、お前、はめられたのか」

「うん、そうなるね。校長も、教師という立場にありながら、思春期の生徒の心情を著しく傷つけたことに関しては、無視するわけにはいかない。ここはやはり、先生に責任を取って貰うべきだと思われますって」

「まさか、それでクビかよ」

「もちろん、抗議したよ。わたしは性的いたずらなんか絶対にしてないって。でも、みんなは聞く耳を持たずだった。それから二週間は悪夢だったな」

十数回に渡る職員会議。保護者会。教育委員会への出席。詰問と非難。その合間に嫌がらせのメールが吐き気がするほど届き、保護者からも抗議が殺到したらしい。

「一番辛かったのは生徒の反応だったな。誤解されているわたしを遠巻きにして、生徒の誰一人として、わたしに話しかけなかった。ま、わたしの気持ちと裏腹に、わたしは全然、生徒に信頼なんてされてなかったってこと」

 笛子はうっすらと笑っていた。

 オレは半分雲がかかった月を見上げて頷いた。

「何かね。ダメージ、大きくてね。人と接するのが怖くなった。植木屋の仕事なら、自然相手だからいいかな、なんてね。ちょっと甘いこと考えたんだ」

 いつもの強気な態度はなりを潜め、言葉つきも弱弱しくなってる。

「………たださ。どうして市川華怜がそんなことしたのか、わたしの何が気に入らなかったのか、今もずっと考えてるんだけど、わかんないんだよね」

 笛子の言葉は重たく響いた。何度も頭の中で繰り返した言葉なのだろう。

「ひょっとして、その生徒、お前に特別な感情持ってたんじゃねぇのか。それが裏返って、嫌がらせしたとか」

 笛子とオレの傍には、浅尾がいる。だから、考えられなくはない仮説だった。

「それはない気がするんだよね。もっと毒毒しいものってか、悪意って言うか、根っこの部分に黒いもの感じたんだよね」

「ん………」

「理由の判らない悪意は怖いよ。それで、精神的にやられちゃったまんまなんだよね」

オレは、「一本いいか」と断って煙草を取り出し、火をつけた。優しいことを云うべきなのかもしれなかったが、嘘っぽいひらひらしたことは言いたくなかった。

「そういうのは交通事故って言うか、どこの世界にいてもちょいちょいあることなんじゃねぇか。悪意とかって案外、そこらへんに転がってるからな。ま、誰かの恨みを買う理由なんて、馬鹿馬鹿しいほどちっちぇえこともあるだろうしな」

「うん」

「だから、理由を追求してもはじまんねぇよ」

「………」

「どっちにしても、それで他人を信じられないなんてのはやめろよ。そんなやつは本当に一握りなんだからな」

 言いながら、なら、そういうお前は人を信じてると言い切れるのか、と自分に突っ込みを入れていた。

多分、オレもあんまり信じてなんていない。

ただ、笛子は思ったより明るい顔になってた。

「喋ってよかった。ちょっと肩が軽くなった」

 そう言うと、照れたように小さく笑った。

「あのさ。この間、あんたの部屋に行って感心したんだよね」

 笛子が続けた。

「だってさ。凄い勉強してるし。目標持ってるし」

「お前だって目標あって、植木屋修業してんだろうが」

「まあね。じゃ、今度、お互いの目標について語らない?」

「馬鹿か。そんな学級会みてぇな事、オレはやんねぇ」

 そう言うと、笛子はすぐにいつものムスッとした顔に戻って、「バーカはそっちだよ」とへらず口を叩いた。

「今夜はもう遅いから帰るね。じゃ、オヤスミ」

 ぬっと立ち上がると、手をひらひら振って、笛子は大股で駐車場から立ち去った。闇に消えて行く、長い足の下のスニーカーの白さが、オレの眼にやけにくっきり残った。


 翌日、浄蓮寺の現場の十時の休憩で、オレと笛子は浅尾ににじり寄った。おれたちの関心は当然、あの後、オイさんと浅尾がどうなったかだ。

「どうよ。黙ってないで話せ」

「キス、出来た?」

 浅尾は二日酔いで胸焼けがすると言って、眉をへの字にして首を振った。オレと笛子が帰ったと判った途端、オイさんは「オンナのいる店行こうぜ」とキャバクラへ浅尾を連れてったそうだ。酔いも手伝って、オイさんは盛大に女の子らの胸だの太腿だのに触ってたらしい。

「もう、地獄だったよ。どこ見てたらいいか分らないし。悔しいし」

 気の毒なくらい浅尾はしょげていた。

 ところがだ。昼休憩になって、本堂脇の控室に入ると、浅尾はエアコンの前に陣取るオイさんの前にストンと座った。そして、何で持っているのか疑問だったトートバックから、ジップロックを取り出してこう言ったのだ。

「オイさん、漬物嫌いですか」

「んなことんないぜ。好きだぜ」

「僕、自分のぬか床持ってるんです。結構うまく漬けられたから、食べてみて下さい」

 浅尾が開けたジップロックの中身を、笛子とオレは伸びあがって覗き見た。人参と胡瓜とかぶの漬けたのが色取りよく並んでいた。やるじゃないか。浅尾。いいぞ。浅尾。オイさんは松脂で黒くなった指先でひとつつまんで口へ運んだ。

「うん。旨いな。この頃は料理上手なオトコがもてるらしいな。浅尾、お前もその口か」

「はい。まあ」

 しゃあしゃあと言ってのけてから、笛子とオレに向けて、浅尾はこっそり親指を立てた。

 作業が終わって事務所に戻ると、浅尾はますます加速した。

「オイさん、今度の休みの日、何か予定ありますか」

「そうだな。ゴルフの打ちっぱなしにでも行くかな」

「銀座でいい映画やってるんですけど、行きませんか」

 オレは思わず、目ん玉が丸くなった。笛子も耳を疑ってる。だが、オイさんは即答した。

「何でお前とデイトしなきゃならんのだ。オイはホモじゃねぇぞ」

「………」

 オレはギロチンの落ちる音が聞こえたような気がした。

「オイは帰る」

 オイさんは一ミリの愛嬌も見せずに出て行った。浅尾にかける言葉がなくて、笛子はウロウロうろたえてた。オレは歩み寄って、浅尾の肩を叩いた。浅尾はしぼんだ風船みたいな顔で弱弱しく笑ってみせた。


 浄蓮寺での作業の最終日は草抜きだけだった。オレは吉野さんらの一軍に呼ばれてたから、都立の公園の手入れの方に参加した。それが終ったのが、午後三時過ぎ。オレはカブ

を飛ばせて、浄蓮寺へ向かった。

案の定、笛子と浅尾は芝生の上でダウンしていた。暑い上に屈んで草を引っこ抜いていると猛烈に腰に来るのだ。

「こらあ、さぼってんじゃねぇ」

草むらに寝転がってた浅尾の頬に、買って来たアイスキャンディをペタっとくっつけてやった。

「ひゃっ」

浅尾が叫んでのけぞった。

「あんたの顔は見たくないけど、アイスは歓迎!嬉しい!」

 笛子は横からひったくって、キャンディを額に当てて涼を取った。オレも並んで横になった。伸びた草の青くさい匂いが、プンと鼻について来る。日焼けしないように、長袖に踝の隠れる安全靴を履いているから完全武装なのだが、尖がった草の葉先は、ツンツン上着の上から肌をさして来る。寝転がった目で見上げる空は、ため息をつきたいほど綺麗な青で、白い雲がぽっかり長閑に浮かんでいる。まるで上質な絵本の一ページのようだ。

 オレは全身で満足していた。多分、相当ニヤニヤしてたと思う。

「祐二、顔が気持ち悪いよ」

 棒キャンディを舐めながら、笛子はぶっきらぼうにオレに言った。

「吉野さんの現場で何かあったんですか?」

 浅尾も不思議そうだ。

オレは最近、ちょくちょく吉野さんらの一軍組に呼ばれる。その理由を二人に聞かせてやった。現場に入って、オレは七年になる。十年で一人前と言われる植木屋だが、オレは多分、筋がいい。だから、そろそろ二軍は卒業して一軍入りが近いんだ。とまあ、早い話が自慢をしたわけだ。二人は興味があるのか、ないのか、はっきりしない顔をしている。ま、暑さでバテてて、勿体ぶったオレの話なんかとどうでもよかったんだろう。

「庭を作らせてもらえそうなんだ」

オレは平静を装って言った。

「どこの?」

「ホントに」

 浅尾と笛子が同時に聞いた。

「十一月に、T駅の近くに建設途中の一戸建てが完成するんだけど、その庭を、吉野さんが、今、施主さんのアイディアを聞いて作庭してるんだ」

ちょっと変形してる土地に立つ一戸建てで、家のくぼんだ部分に畳一畳にいかない空き地が出来るんだ。と、オレはスマホを取出し、二人に見せた。

「ここを坪庭にしたいって、施主さんが言ってるんだそうだ」

 宅地造成された土地の写真を見て、二人は目を丸くした。

「ここの作庭を祐二さんがやるの!?」

 浅尾が頭のてっぺんから素っ頓狂な声を上げた。

「やるったって、この狭さだぜ」

「でも、凄いですよ。ここの土地が祐二さんのものになんでしょ」

「何植えるか、アイディアを二つ、三つ、考えて提案するだけだよ。決めるのは施主さんだからな」

「それでも凄いです! 庭師への第一歩ですよ!」

 普段、静かな浅尾が唾を飛ばしている。笛子は多分、鼻先で笑うだろうと踏んでたけど、意外にも白い歯を見せた。

「今まで頑張って来たんだもんね。やっと認められたんだよね。よかった」

こいつらしくない労わりの言葉が返ってきて、オレはちょっと、うろたえた。オレの部屋の庭の見取り図なんかを見ているから、これまでの努力みたいなもんが、この鈍感オンナにも伝わったんだろう。しかし、あんまり、ストレートに評価されると、それはそれでこそばゆい。

「笛子、もう一回、虎ノ門へ行かないか」

「え」

「虎ノ門の庭を見て、もう一遍、親方の作庭術を勉強したいんだ」

 何を大げさな事を言ってやがる。猫の額ほどの庭を任されただけで。そう思うだろう。オレは確かにちょっと舞い上がってたのかもしれない。ちょっと格好をつけたかったんだ。けど、笛子は、簡単にOKした。


 空中庭園の表情はこの間と全く違っていた。白砂は真っ青な夏の空を背景に眩しく輝いていた。砂の上に屹立する石たちは、太陽の光を反射するビル群の前にあって、ひとつひとつ異なる貌を見せていた。こんなにこの庭は、季節や天候によって変化するのか。それも計算に入れて、親方は庭造りをしたのか。

「この間も思ったけど………やっば、うちの親方のはすげぇよな。もちろん、こんな庭作らせた福沢さんて人も、かなりの粋人だけど」

「うん………」

「庭には人をお喋りにする庭と無口にする庭があるだろ。黙っちゃうよな。ここにいると」

「………でも、わたしが作りたい庭はこういうのじゃないな」

 笛子がボソリと言った。堅く腕組みしていたオレは、光に満ちた空間から笛子に目を移した。

「祐二ほどじゃないけど、わたしにもある。理想の庭が」

「どんなのだ?」

「わたし、生まれが飛騨の高山なんだけど、そこから更に山奥の山奥に、おばぁちゃんが住んでて、農業をやってるの。その家に広い広い庭があって、春になると、花で一杯になる。色んな花が自由気ままに咲いてて、物凄く綺麗なの。天国みたいに素敵な庭なんだ」

「………」

「木や草や花がぺちゃくちゃ楽しそうにお喋りしてる感じの庭。だから、見てる方も自然と口が軽くなる。あんな庭が作りたいな」

「……」

オレは吉野さんから、坪庭の話を持ち掛けられた時から、考えていたことを口にした。

「笛子、もし、望むんなら、お前も坪庭のプラン、考えてみないか」

「………?」

「施主さんがその案を気に入ったら、それで行く」

「どうして?」

 笛子はオレの顔を覗き込むようにして聞いた。

「施主さんの家には、娘さんが二人いるんだ。中学生と高校生の。女性の感覚の方が好まれるかもしれないだろ」

「そんな手柄譲るみたいなこと、しなくていいのに」

「手柄って、お前………」

「それって、同情なの?」

 笛子がオレにかぶせてきた。

「わたしの打明け話を聞いて、可哀そうだと思ったの?それで?」

「そんなんじゃねぇよ」

 オレはこの頃、ようやく「笛子にお前が育ててもらうんだ」と言っていたオイさんの言葉が身に沁みてきつつあった。

オレは人の好き嫌いが激しい。自分を棚に上げて、あいつは能力がねぇとか、あいつは人として器がちっちぇとか。そんな風に心の中で悪口を並べることがよくあった。そういう自分こそが間口の狭い狭量な人間だと、どっかでは分かっていたが、それを認めたら、オレは植木屋としてやっていけなくなりそうで、ムキになって突っ張っていた。

笛子はと言えば、男だらけの職場で本当に頑張っていた。酒が入れば、職人たちは下ネタのオンパレードになる。酔って笛子に触る奴ももちろんいる。仮設トイレのない現場では「笛子、野クソしに行くなら、ついていってやるぞ」位のことは平気で言われる。十人を超すそんなオトコ臭い連中相手に、笛子は一歩も引かなかった。

「お前、入社した時から、ガンガン突っかかってきたろ。アレ見てて、思い出した場所があったんだ」

「………」

「昔、引っ越しで飼ってた犬を手放すことになって、親が飼い犬を保健所に連れてったんだ。オレも一緒に行った。オレはそれまで、保健所のことなんか、全然、知らなかったんだ」

「………」

「そん時、見た。檻の中で歯むき出しにして、吠えてる十匹くらいの痩せた犬を」

「………」

「最初は、噛み殺すぞって吠えてると思った。けど、よく見たら違った。みんな怯えて震えてたんだ。あれは助けてくれ、ここから出してくれって言う必死のサインだったんだ」

「………」

「お前の眼、あの時の犬と同じだった」

「わたしは助けてくれなんて言ってない」

 間髪入れず、笛子が言い返した。

「いや、お前が噛みつく時はよ。言葉の裏で、分かって、認めて、仲間にしてって、訴えてるんだ」

 笛子は何か言いたそうに口を開きかけたが、じきにふんと鼻を鳴らして、そっぽを向いた。

「ま、いいから素直にオレの提案を飲め。これでも一応、お前の教育係なんだかな」

笛子は無言だった。他人を寄せ付けない野犬の横顔。案外、オレと笛子は似てるのかもしれない。

 何も応えない笛子と二人、ビルから出ようと、受付に入館証を返していた時だった。背後で女性の声がした。

「叔父様はカサブランカがお好きだったでしょ」

「嬉しいよ。誕生祝いは。八十歳と言う年は喜べないがね」

 振り返ると、つい今、ビルに入って来た二人連れがいた。この間、ここで挨拶した福沢氏だった。隣には百合の花束を持った年若い女性がいた。福沢氏は笛子とオレの姿に気づくと

「ああ、竹井造園の方でしたね」

と言った。その言葉が終らぬうちに、笛子が高く叫んだ。

「市川っ」

福沢氏の横にいる百合の花束を胸に抱いたまだ幼さの残った女が、笛子をあ然となって見ていた。

「先生………」

 笛子は完全に形相が変わっていた。その女は、怯えたように後ずさりした。

「知り合いかね」

 福沢氏がどちらにともなく尋ねた瞬間、女は花束を福沢氏の胸に押しつけて、ビルから飛び出て行った。

「!」

オレは気付いた。あの女が笛子を陥れた女生徒なんだと。笛子が長い脚でダッシュして追いかけるとオレは思った。けど、笛子はその場に棒のように突っ立ったまま、動かなかった。百合の甘い匂いがその場に満ちていた。


国道沿いの道をカブを押して歩き始めた時には、もう陽は沈んで暗くなっていた。笛子はオレの横を自転車を押して歩いていた。

「お前、セクハラ事件をでっち上げられたんだろ。あのガキからその理由聞き出すべきだったんじゃねぇのか」

「そうだよね。何で追えなかったんだろ」

「びびってんじゃねぇよ。普段、オイさんやオレに食ってかかるくせに、あんなガキにひるみやがって。お前はマジ、大胆なのか小心なのか、わかんねぇよ」

 あの場にいた福沢氏には、敢えて、何も説明しなかった。市川華怜は福沢氏の遠縁の娘にあたるらしいことが判ったからだ。笛子との間に起きたことを言うとややこしくなる。うちのお得意様にまで、問題を広げない方がいい。

それにしても、笛子は何で、あの場から動けなかったのか。それだけ、市川華怜の裏切りで被った打撃が大きいからなのか。

「………」

 笛子はしばらく無言だった。

「ねぇ、ホントに野犬にみたいに吠えてるかな。そんなにわたしって、イタイ?」

 笛子はふざけた目をしていた。それを見て、オレは一挙に安心した。大丈夫だ。こいつは自分を笑えてる。ちょっとだけだが、余裕がある。市川華怜を追えなかったけど、最悪の状態ではない。

 笛子が急に足を止めた。正面からオレを見ている。オレはちょっとびっくりした。こいつ、まつ毛が長いんだな、と思って。月明りの中、笛子が目線を外さないので、オレは何故だかドキドキしてしまった。びびり屋の笛子にオレがびびってどうする。

「あんた、鼻の形が綺麗ね」

言うのと同時に、オレの鼻先をつまみやがった。

「!……」

オレが動揺している間に、笛子はケロッと歩き出した。

 何なんだよ。今のは………。何考えてやがる………。

 

 その夜、オレはベッドの中でなかなか寝付けなかった。ごまかそうとしたが駄目だった。自分に嘘はつけない。オレはどうやら、笛子に特別な感情を抱きはじめている。浅尾には職場恋愛はよせ、と言っておきながら。屈折して鬱屈してる厄介な野犬オンナに、いいオトコだと思われたがっている自分がいる。

困った。

オレは笛子のアパートのベランダに置かれてるだろう夏みかんの木のことを考えた。実は幾つ実ったのか。それとも、実らなかったのか。背丈はどれほど伸びたか。

困り果ててるのに、空想は楽しかった。



  九月に入った。

一戸建ての家の庭の手入れがその日の作業だった。一般家庭の庭としてはかなりの広さだったが、剪定や刈込はスムーズに進んだ。午後はオイさんやオレがやった作業の後片付けが、笛子と浅尾の主な仕事となった。

浅尾が笛子に電気ブロアーの使い方を教えてやったようだ。掃除機の反対の仕事をしてくれるマシンだ。電源ボックスからリールコードを掃除の開始地点まで引く。刈り込みバサミでトビを飛ばしているオイさんやオレの後を追って、ブロアーで吹く。猛烈な風が出て、刈り取られた枝を一カ所に集めるのだ。浅尾に簡単な説明を聞いて、ブロアーを持たせて貰った笛子は、噴射した瞬間、風の勢いにのけぞった。が、すぐにこのハイテクマシンが気に入った様子だ。

桜、柳、サンゴ樹、ツツジ、シャカ、タマリュウなどのまわりにくまなく風を当てて行く。確かにブーブーと言う音に滑稽味があって、このマシンは愛嬌がある。けど、笛子は調子に乗り過ぎだ。「凄い凄い」と機関銃を連射するように、あちこちに風を吹かせまくっている。オレより先に、オイさんの怒鳴り声が響いた。

「こらぁ、お前、どこに向けて吹かしてんだ。斜面は上から下に吹かせ。あっちで集め、こっちで集めしても終んないぞ!」

 笛子は首をすくめると、今度は間近にいた浅尾の足元に向かってブーブー、ブロアの風を当てた。

「笛子!遊んでんじゃねぇ!」

オレも怒鳴った。やれやれ、多少は職人らしくなったかと思ったが、笛子はまるで変わってない。やりたいことをやりたいようにやる。

 そう言えば、この日の昼休み、ちょっとした変化が笛子にあった。笛子が現場に、一眼レフのカメラを持ってきていたんだ。

「何を撮るんだ?」と聞くと「ハサミの使い方」と答えた。作業の合間、何回かシャッター音を聞いたが、本当のところ、何にレンズを向けてるのか、オレには判らなかった。

 現場仕事を終え、事務所に戻り、チェーンソーを片づけに道具小屋に入った。オイさんの背中があった。脚立を大きい順に並べている。そのすぐ傍に、笛子が突っ立っていた。作業終りのオイさんの体からはすえたような汗の匂いがきつく漂って来る。オレは何故か、二人の佇まいに違和感を感じた。不快感と言った方が正しいかもしれない。何となく居づらくて、オレは声もかけず、小屋から出て行こうとした。そんなオレに気づいたオイさんが声をかけてきた。

「祐二、お前はどう思う?」

「何です?」

 笛子はオイさんのそばで、ひどいしかめっ面だった。

「笛子を営業にしようって話だ」

 何のことか判らなかった。オイさんは、今朝、小耳に挟んだという話をしてくれた。十月から、笛子を「竹井造園」の営業にしようと、親方が目論んでるらしいというのだ。

「竹井造園」には、電話番の久美子さんの他に、篠田さんという五十代の営業担当がいる。篠田さんは元職人だったが、腰を痛めて、営業担当になった人だ。「竹井造園」は公共事業も請け負っているから、お役所との折衝や交渉事を担当する人間が必要なのだ。けれど、篠田さんは最近、体調を崩していて、後を継いでくれる人間を探しているのだとか。

「それを笛子にやらせるって事ですか」

 オレは俄かには信じられなかった。

「親方が笛子を虎ノ門に連れてっただろ。あれはあそこのオーナーに、それとなく笛子を紹介しときたかったんじゃねえのか?」

 そう言えば、親方は笛子にスーツを着て来いと言った。将来の営業担当者として紹介したかったのかもしれない。

「わたしを現場から外すってことですか」

 笛子はわかりやすく、怒っていた。

「篠田さんも年だしな。親方としても、若い顧客を開拓するのに、笛子みたいなのにいて欲しいと思ってるんじゃねぇか」

 笛子は頑張って来たのに。体は相当きついはずだったが、今日まで一日も休まず通っている。親方もそこは認めていると思ったが。

「オンナは結局、駄目だって事ですかっ」

 言って、笛子はガッと前に出た。

「オレに噛みつくな。親方の考えなんだから」

 言葉が終らぬうちに、笛子は道具小屋からひらり飛び出て行った。オイさんが顎をしゃくった。オレは笛子の後を追った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?