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「楽園の庭」第五話

翠堂さんの教室には、真っ赤に紅葉した楓の大きな枝が横たわっていた。今日の翠堂さんはダメージジーンズに袖を断ち切ったTシャツと言う軽装だ。

「これ終わるまで、ちょっと待ってて」

 翠堂さんは枝に跨ると、腰を落として鋸を引き始めた。腕は細いが力は強そうだ。ガシガシと枝を落とす姿は、植木屋顔負けの手際のよさだ。

「吉祥寺のホテルのロビーに飾る枝なのよ。こっちで下準備をして、今夜遅くにホテルに入って、夜中に生けるの。アシスタントが一人いてくれたら楽勝なんだけど、稼げてないから、誰にも頼れないのよね」

 翠堂さんはそんな話をしながら、息も上げずに次々に落として行く。教室の周囲に置かれたバケツには、百合や菊など、オレが名前を知らない花がどっさりと並んでいた。相当大がかりな作品になるのだろう。

「わたしとオイさんの関係って知ってる?」

 不意に翠堂さんが質問を向けてきた。

「いえ………」

 翠堂さんは首のタオルで汗をぬぐい、言葉を続けた。

「出会ったのは、もう二十年以上前になるかな……昔話って好きじゃないけど、色いろはっきりさせといた方がいいから話すしとくわ」

 翠堂さんは、一旦鋸を置いて「ガソリン入れようか」と、台所へ行った。戻った時は両手に缶ビールをふたつとポテトチップスの袋と、一枚のポスターを持って来た。

「見て」

 翠堂さんが広げたのは古い映画のポスターだった。ちょっと尖がった「青春映画」と云った感じで、子どもの頃見たことのある男優と女優の顔があった。

「ここを見て」

 翠堂さんが示したスタッフの欄に小さく「袴田通泰」の名前があった。

「この映画の現場でね。わたし、オイさんと出会ったの」

 長い話になりそうだった。腹を据えて訊こうと思った。

「ある華道家さんのところでアシスタントをやってたの。そこにね。映画の中で飾るお花を用意してくれないかって依頼が来たの。ま、でも、あんまり重要な意味のある花でもないらしいから、あなた行ってくれないって頼まれてね」

「はい……」

「何の仕事でも、現場って面白いわよね。色んな人がワッと力を合わせてモノづくりする。映画の現場もエネルギーが渦巻いてたわ。そこにね。オイさんがいたのよ」

 オイさんはその頃、三十そこそこで映画の現場ではまだ下っぱだったらしい。アシスタントで現場に入っていた翠堂さんも下っぱで、下っぱ同士の二人が出会った。かなり、気が合ったのだそうだ。現場が終ると毎晩のように飲んだ。翠堂さんは花について語り、オイさんは映画について語った。話題は尽きなかった。映画の撮影が終わった後も、二人はたびたび会った。そのうちに深い関係になった。

「危ないなって感じはしてたの。それぞれ事情があったから」

オイさんはもう結婚していたし、翠堂さんも親方が勧めた相手と婚約まで進んでいたのだ。

「情熱だけで突っ走ったのね。でも、オイさんはわたしの全てを認めてくれてる理解者だ、わたし、そう確信してた。だから、婚約者より、オイさんを選んだ」

翠堂さんは婚約者には全てを話して別れた。オイさんも一旦は妻と別居した。

「でも、別れないであげてってわたしが言ったの。オイさんの気持ちを全然疑ってなかったし、形はどうでもいいと思ってたから。でも、そんなのわたしの傲慢さ以外の何物でもなかったけど」

 オイさんは翠堂さんと付き合いながら、妻との暮らしも続けたそうだ。

それを見ていて激怒したのが、親方だった。

 何度もオイさんを呼びだしては、別れるよう迫った。オイさんはそのたびに頭を下げたが、現状、どうすることも出来なかったらしい。二人のうちの一人を、という選択をしなかったのか、出来なかったのか。

 翠堂さんは何度かオイさんと別れようとしたみたいだ。パリへ留学したり、沖縄に移り住んだり。しかし、ある程度、時間が経つとまた、オイさんの元へ戻った。

「ブーメランよ、まるで」と、翠堂さんは笑った。

 転機が来たのは、オイさんと翠堂さんが出会って五年後だ。オイさんはある自主映画に携わった。興行がうまくいかなくて、大赤字が出て責任を取るべき立場の人間が姿を消し、結果、オイさんは四千万からの借金を背負った。

「それを親方に話したら、オイさんを呼べと言うの。もう揉めないでって頼んで、二人を会わせたわ。そしたら、親方が、そんな因果な商売はやめちまえ。うちに来て働くなら、かぶった借金の半分、肩代わりしてやる。そう言ってくれたの。それでオイさんは竹井造園で働くようになったのよ」

 オイさんは既に四十代に入っていたが、他の職人に混じって、それは熱心に仕事を覚えたそうだ。それが今のオイさんになった。

 翠堂さんは一人語りに飽いたように、又、缶ビールを持って来た。オレは飲まないで、ポテチばかり齧っていた。

「だったら親方としては文句ないんじゃないですか。今、親方がオイさんを許せないのは何故なんですか」

「わたしみたいなインチキ華道家でも、兄にすれば可愛いみたい。かなり溺愛されてるのよ。わたし。だけど、親方は古い人だから、形が欲しいのね。オイさんに奥さんと別れて欲しいの。わたしをきちんと籍に入れて欲しいの。でも、オイさんに離婚の意志はないわ」

 オレはようやく、事の次第が飲みこめてきた。

 ややこしい大人の世界のややこしい理由だった。オレにはオイさんのきっぱりしない態度が納得出来なかった。

「奥さんと別れる気がないなら、翠堂さんのそばからいなくなればいいのに」

「それは出来ないでしょ。親方に借りがあるもの。それ、まだ返せてないから」

「じゃ、奥さんと別れたらいいじゃないですか」

「彼はね。奥さんといるとホッとするのよ。彼の奥さんて、わたしみたいにキチキチしてない人だと思うの。きっと一緒にいると、いい感じでゆるーくなれるのよ」

 でも、今のままではどっちも中途半端じゃないか。オレはそう口にした。

「それのどこが悪いの」

 少し酔ったのか、翠堂さんは薄く笑っていた。

「白黒つけない方がいいこともあるの」

 笑みの合間に、後ろめたそうな、歯切れの悪い表情が、見え隠れしていた。

「笛子ちゃん、今の話を聞いたら、何て言うかしらね。最低とか、言われちゃうかな」

オレは返答出来なかった。

「わたし、オイさんと出会った頃は、あの笛子ちゃんみたいに、勢いがあったな。何の根拠もないけど、誰にも負けない、負けるもんかって強い気持ちをしっかり持ててた」

「………」

「つまらない大人になったのかなって、あの子を見てると思う」

 やっばり、オレは何も言えなかった。

翠堂さんは巻き添えを食った笛子に謝っておいてくれと、オレに頭を下げて頼んだ。

「親方には、わたしが責任を持って、きちんと話しておくから」


 翠堂さんのマンションを出て、二子玉川の駅に構内に入った時、オレの携帯が震えた。笛子からの着信だった。メールを開いた。

「事情があって飛騨へ帰ります。笛子」

そう書かれた文字を、オレは券売機の前に突っ立って、凝視した。察しはついた。笛子はオレと現場に見切りをつけたのだ。オレはそれでも、笛子の携帯に電話した。何か言わないと後悔する。だが、呼び出し音の後に聞えて来たのは、デジタルなメッセージだった。

「ただいま、電波の届かないところにいるか、電源が入ってません」

 

 

  次の日は朝から雨で、現場は休みになった。

 オレはベッドに横になったまま、歯も磨かず、飯も食わないでいた。

 雨の日は雨の音を聞けって、親方が言ってた。ガラス窓飲向こうには、白い針みたいな雨が途切れなく落ちていた。サッシを半分開けていたけど、雨の音は丸きり耳に入らない。起きた時から、オレの頭の中では、ブンブン唸る蜜蜂みたいに、色んな言葉が飛びかっていた。

笛子の言葉。親方の言葉。オイさんの言葉。翠堂さんの言葉。

 あれはああいう意味で、オレはこう応えた。けど、あそこでアレを言わなきゃ、ああなって、今頃はこうなってて……。なんて繰り返しているうちに、どんどん澱んだ沼に沈んでいくみたいだった。

 そう言えば、中学の二年の時、寝具のセールスマンをしている親父に「お父さんみたいな仕事は嫌だ」と云ったのが悪かったらしく、生まれて初めて殴られた。高校に入った年には、隣の工業高校の連中にカツ上げされて辞書を買うための代金と映画の料金を奪われた挙句、駅の高架下でふるぼっこにされた。大学に入って、初めて参加したコンパで、酔っ払った女の子を介抱しているうちに「どこかで横になりたい」と言われ、当時住んでたオレのアパートへ連れていったら、その子はたびたび訪ねて来るようになって、何回かセックスをした。クリスマスの日、バイト代を貯めて買ったネックレスを渡したら「わたし、悪いけど、あなたの彼女じゃないから」と突っ返された。挙句に「精神的に童貞の人と一緒にいても、退屈なのよね」と言われた。

 知らず知らずのうちに、嫌な記憶がどんどん押し寄せて来て、オレは自分が物凄く不幸な人間のような気がしてきた。

 人を信じられないのは、過去の出来事のどれが原因ということではないんだ。色んなことが積み重なり、オレと云う人間のキャラと考えと頑固さが混じって、いつの間にか他人を容易に受け入れられなくなってしまってたんだ。笛子はそんなオレの閉じたシャッターをノックしてくれた。何度も何度も、しつこいくらい。度胸のないオレは、教育係というのを建前にしてやっとシャッターを開けられたんだ。笛子のおかげで、オレというの強張った建物にも、風が通っていった。自然に笑えてしまう気持ちのいい風が。

 けど、浅はかにもオレはそれに対して……。

 雨は昼すぎになってもやまなかった。


 日本酒がすーっと喉に入って行く。幾らでも飲めそうな気がする。頬は火照っているけど、頭の芯はひんやり冷静だ。向かいあった浅尾はビールのジョッキを前に置いて、さっきからずっと携帯をいじっている。笛子のスマホに繰り返し、ラインを入れているのだ。しかし、既読にもなってないらしい。行く先は飛騨だと判っているのに、笛子はどこか別の遠くの惑星に行ってしまったような気がした。

知ってか知らずか、浅尾は「部屋に荷物を置いたままだって、アパートの大家さんが言ってました。笛子さん、絶対、戻ってきますよ」と、オレに向かって力を込めた。

「だから、祐二さんもしっかりして下さい」

 オレはそんなにひどい顔をしていたのか。

「それに奥さんに聞けば、笛子さんの故郷の連絡先も判るはずです。今、電話で聞いてみましょうか」

「いいよ」

笛子にかけてやれる言葉がない。

「それにしても、ひどいですよ。オイさんは。家庭があるのに、十年以上も翠堂さんと付き合ってたなんて」

 浅尾に、オイさんと翠堂さんの間の経緯については説明した。それに対して、親方が苦々しく思い続けて来たことも。

「それが原因で笛子さんが営業に回されそうになったんだとしたら、可哀そうすぎますよ。自分、オイさんに一言言わないと気が済まないです」

オレが笛子を好きなこと。なのに、傷つけてしまったことは話してない。

「会社には笛子さんのこと、何て言います?」

「まんま、伝えなきゃなんねぇだろうな。明日の朝、オレから、親方と吉野さんに言う」

「微妙ですよね。親方のいびりのせいで笛子さんが消えたって聞いて、親方、どうリアクションしますかね。自分の非、認めますかね」

「非がある分、むしろ開き直るんじゃねぇか。文句があるならうちを辞めてくれたっていいんだぜ、とか」

「じゃ、一人、笛子さんが泣いて終りですか。それじゃ、あんまりじゃないですか」

 浅尾は珍しく饒舌だった。

「……ちょっと黙ってろ」

オレはぴりぴり神経質になってた。親方だけのせいじゃない、オイさんと翠堂さんのせいでもない。笛子がいなくなった一番の原因はこのオレだ。

「お前がガタガタ言ったって、何も解決しねぇんだからよ」

 分りやすい八つ当たりだ。当然、浅尾はムッとなった。

「じゃ、誰が何をすれば、笛子さんは帰ってくるんですか。彼女は自分らの大事な仲間ですよ」

 普段、穏やかなこいつもカリカリしていた。こいつはこいつで、オイさんに腹が立ってしょうがないんだ。それを承知しているのに、オレの口は止まらない。

「現場に漬け物持って来て、にやけてるようなやつが、仲間どうたらなんて、カッコつけてんじゃねぇよ」

 浅尾がスッと息を止めた。まずい流れだ。オレは一服して気を鎮めようと、ポケットの煙草を探った。指先が紙に触れた。笛子がオレに渡した坪庭の図面だった。

やりきれなさがぶり返してきた。

「祐二さん、こんな時に絡まないで下さい」

浅尾がオレを睨みつけてる。

「今の言葉、引っ込めて下さい」

「うるせぇ。一々文句つけんじゃねぇ」

 オレはきっと、誰かに殴るか、誰かに殴られるかしたかったんだと思う。浅尾が青筋を立てて、オレの胸倉をつかんだ、

「祐二さん、言いすぎだろ。謝れっ」

「てめぇのその口を閉じろっ」

 オレも、浅尾の襟首を掴み、力まかせに手前に引っ張った。浅尾の体がテーブルの上につんのめった。ジョッキが倒れた。跳ね起きた浅尾は、オレに拳を突き出した。拳はオレの頬をかすった。オレは何やら意味不明なことを怒鳴りながら、つかみかかっていった。店員が飛んで来た。たちまちオレたちは引き離され、したたかにこずかれ、そのまま、店の外に突き出された。

 店の前で、二人の店員が声高に浅尾に詰め寄っていた。浅尾は店員に財布から金を払ってた。今夜の飲み代はオレが払う、そう言おうと浅尾の肩に手をかけると、浅尾は手荒に振り切った。オレを軽蔑したように一目見た後、振り返りもせず、その場から立ち去ってしまった。

「………」

気分は一気に沈んだ。オレはとぼとぼと歩き出した。

 

 タクシーで、M駅の外れまで来た。オイさんの妻がやっているおでん屋には、一度、来たことがあった。確か駅から歩いて十五分くらいの人通りの少ない場所にあったはずだ。タクシーを降りて、うろ覚えの方角に向かって歩いた。少し道に迷い、ようやく年季の入った赤ちょうちんを見つけた。

 テーブル席が三つにカウンターに四つの席。壁の品書きの字は薄くなってところどころ読めなくなっていた。

 テーブルに座るとすぐ、目の前にお通しの枝豆が置かれた。丸い愛嬌に溢れた顔立ちの女性が少し疲れた様子で立っていた。オイさんの妻だ。

「何になさいます?」

「大根とはんぺんとビール」

 オレは急いで応えた。浅尾と揉みあった興奮がまだ残ってて、うまく喋れない。

「袴田さんはいらっしゃいますか」

 妻が答えるのより早く、トイレのドアが開いてオイさんが現れた。何故だかヤクルトの帽子をかぶって赤いチェックのエプロンをしていた。

「オウ、来てたのか」

「すみません。いきなりで」

 オレは立ちあがって、頭を下げた。

「ああ、思い出した。おとうちゃんの会社の人だ」

 オイさんの妻がカウンターの中で朗らかに言った。

「働かねぇ奴らなのよ、こいつらはよ」

「そんなことないわよね」

 菜箸を持った妻はニコニコ笑いながら、おでん鍋からはんぺんと大根を皿に盛った。それをオイさんが受け取り、オレの前に置いた。出汁がよく浸みた美味しそうな大根だった。

「笛子が消えました」

 そう言うと、半分笑っていたオイさんが、真顔になった。

「どうしたらいいか、判んなくて」

「………何でだ」

「一言じゃ言えません。オイさんにも関係があります」

一段声を落として答えた。

「親方の一件だな。オイも吉野さんから連絡を貰って話は聞いてる………出るか」

オイさんはエプロンを外した。

 二人で店を出て、向かい側にあるクリーニング屋の前で、オレはオイさんと向き合った。けど、何と切り出したらいいのか迷って、オレは馬鹿みたいにもたついた。

「オイとさちこのことで、親方はへそを曲げた。そう言うことだろ」

「……はい」

「そいで、笛子にとばっちりがいったんだな」

「そうです。けど、笛子が消えたのには、オレも責任があって」

「………」

「あいつ、教えてた中学で生徒に酷い裏切られ方してて、人間不信になってたんです。オレ、見てられなくて、人信じろよ、みたいなひらひらしたこと言いました。なのに、そのオレが笛子を裏切ったんです」

 オレはポケットに手を突っ込み、笛子が書いた図面を取り出した。哀しいくらいくしゃくしゃになってた。

「坪庭の図面書いてみろって言っときながら、あいつがこれ出した時、オレは手柄譲ったりしねぇぞって」

「………」

「お前はひでぇオンナだって」

「………」

「あいつ、オイさんを特別な風に思ってるんです。オレ、それが嫌で、だから、お前、オトコ漁りに現場来てるのか、みたいな……」

 オイさんはしばらく黙っていた。

「………まあ、笛子も色んなことが重なって、辛くなったんだろうよ。ここまで、随分と我慢してきたからな」

「オイさん、オレ、何もかんも嫌です。もう」

「………」

「オレはコミュニケーション能力なんて上等なもん、持てないスよ」

「……」

「うまい謝り方もわかんねぇ」

「……」

「オレは、もう絶対、誰とも手が繋げねぇ」

「……」

駄々をこねる幼児のように、オレはずるずるその場に蹲ってしまった。オイさんはオレの肩口を掴んで、引っ張り上げると、「クソガキが」とため息をついた。

「まあ、お前にみっともねぇぞ、とは言えねぇがな」

「………」

「オイもオンナのことでは、つまずきっばなしだからな」

「………」

「これでいいとは思ってねぇが、祐二よ。人間な。そう簡単に生き方、変えられねぇのよ」

「………」

「オイのかみさんはオイに何にも言わねぇ。言われねえと、ますます、オイはつけあがる」

「………」

「それでこんなざまだ」

 オイさんが弱く笑った。翠堂さんと同じ笑い方だった。

「笛子は言うだろな。あんたらは最悪だとよ。あいつは容赦ないからな。ま、そこがあいつのいいとこだがな」

 オイさんはしんみりと言った。軽薄さが薄れて、憂いを含んだ眼差しが、やたらに優しくオレを見ていた。オイさんの言う通りだ。確かに笛子は容赦ない。そんな笛子がオレは好きなんだ。

笛子に会いたい………。

一旦、そう思うと矢も楯も堪らなくなった。

「笛子を迎えに行ってもいいですか」

「……ああ、行って来い」

オイさんは胸ポケットから、万札を三枚取り出して、オレの手に握らせた。

「親方にはオレからきちんと事情を伝えておく」

 オレが頷いた時、店の戸が開いて、オイさんの妻が顔を出した。

「おとうちゃん、どしたの?」

 オレはちょっと慌てて札をポケットにねじこんだ。

「若い子いじめちゃ駄目よ」

「なしなし。おかあちゃん、オイはそんなワルじゃねぇよ」

 オイさんは、煙草を取り出した。

「あんまり吸うと命が縮まるよ」

「オイの肺は鉄で出来てるんだ」

「じゃ、明日、保険の外交員呼んで、おとうちゃんに多額の保険金かけよう。おかあちゃんの老後はそれで安泰だ」

「殺すなよぉ」

 使い古しの雑巾みたいな夫婦のやり取りだった。だけど、オイさんが離婚しない理由が少し分かったような気がした。オレは一礼して、くるりと向きを変え、駅の方角へ歩き出した。


 新宿駅に隣接しているバスターミナルから、飛騨高山行の深夜バスが出ていた。

深夜一時過ぎ、オレはバスに乗り込んだ。遅い時間で迷惑だと思ったが、親方の家に電話を入れて、奥さんから笛子の実家の住所も聞いておいた。奥さんは「笛子ちゃんに、戻ってらっしゃいって伝えてね」と言っていた。

走り出した窓の外の闇を見ながら、オレは考えた。笛子を呼び戻したい。けど、今の状況じゃ、笛子も簡単には帰れない。親方のねじれた気持ちを解きほぐさないといけない。オレに何か出来ることはないか。笛子を現場に復帰させるにはどうしたいい?

高山まではおよそ六時間の道のりだった。考えて考えて、それから、夜明け間際にオレは少しだけ眠った。

 陽が出てすぐなのに、高山駅の辺りには外人観光客がゾロゾロたむろしてた。

観光案内所で貰った地図で、笛子の家の場所を確認すると、駅からそう離れてないのが判った。オレは、方角を間違えないように注意して歩き出した。

じきに「河合」と言う表札の出ている一軒家を見つけた。前庭の植木は丁寧に手入れされている。オレはスマホを見た。まだ、七時前だ。幾らなんでも早すぎる。どこかで朝飯でも食って、それから出直そう。そう思い、その場を離れようとした時、玄関が開き、喪服の婦人が現れた。数珠を持ち、黒いバックを下げている。瞬間、オレは血が逆流した。頭が真っ白になって、軽いパニックに陥った。

そんな、まさか!

 笛子が!?

冗談だろっ。

「すみません。河合笛子さんの職場の者ですが、笛子さんに会わせて貰えませんかっ」

 オレは挨拶もそこそこに、喪服の婦人に話しかけた。婦人は訝し気にオレを見返した。

「東京から来たんです。深夜バスで」

 声が震えていた。

「それはご苦労様やったねぇ」

 土地の言葉で返事をした婦人は、玄関に戻り中に向かって声を張り上げた。

「笛子ちゃん、笛子ちゃん、お客さんよぉ」

 オレは一瞬、ぽかんとなった。

玄関先にあの見慣れた笛子が、ひょいと顔を出した。

 生きてる。

無事だ。

大丈夫だ。

「祐二、何してるの」

 笛子は喪服姿で不愛想にオレを見てた。ふざけんな。今、この瞬間の数秒間、オレの心臓は止まるとこだったんだぞ。くそ。オレはなるべく動揺を見せないようにして、近づいた。

「お前が心配だったから、来たんだよ。え、葬式なの?」

 我ながら間抜けな質問だ。

「おばあちゃんが亡くなったの。昨夜、お通夜で今日がお葬式」

「……それでお前、こっちに帰ったのか」

「………」

「そんならそうと、ちゃんと知らせてくれよ。何でいなくなったんだって悩んだんたぞ」

「あんたと、口聞きたくなかったのよ」

 笛子は不機嫌だった。落ち着け。祐二。コミュニケーションだ。

「おばあさん、どこが悪かったんだ?」

「心臓。でも、急だったの。先週までは畑に出てた」

「ご愁傷さま。取り込んでるのは分るが、オレもせっかく来たんだ。何とかちょっとだけでも、話せる時間取れないか?」

「うん。お葬式は十時からで、その後、色いろあっても、三時には終わる」

「じゃ、時間つぶしてる。後で会ってくれるか」

笛子は頷き、市内のホテルの名前を告げた。そこのロビーで落ち合うことにして、一旦、オレたちは別れた。

とにかく、朝飯を食おう。オレは再び、駅の方角へ歩き出した。

 オレがしなければならないのは、笛子に謝ることだ。まず、それが一番。それから笛子に説教もしなくちゃいけない。理由も告げず、仕事を休んではいけないと。そうだ。オレは教育係なんだから。

 午前中一杯、観光をした。古い町並みを歩いたり、赤い欄干の橋を渡ったりした。こじんまりした静かな町だった。ここであのわあわあ煩い笛子が生まれたのか。いや、案外、幼い頃はおとなしい子だったのかもしれない。すれ違うランドセルを背負った子どもを見て、そんなことを思った。

 指定されたホテルのロビーに二時ちょっと前に着いて、置いてあった週刊誌を読んだ。ちっとも中身が頭に入って来なかった。

 三時丁度に、笛子が現れた。喪服から何故か作業着に着替えていた。

 言いたいことが山のようにある。さて、何から切り出すか。

「手伝ってほしいことがあるの。来てくれない?」

 オレの思惑を裏切って、笛子はそれだけ言って、先に出て行こうとした。

「オイ、待て」

 呼び止めて、まずは、香典の袋を差し出した。笛子は黙って受け取った。

「オレの話を聞いてくれ………」

「あとにして」

笛子は踵を返して、さっさとホテルから出て行った。何なんだよ。全く。

オレは仕方なく、後に続いた。


 ホテルの駐車場に停めてあったワゴン車に乗り込み、ハンドルを握った笛子は北東の方角に向かって走り出した。どこへ行こうとしているのか説明はなしだ。代わりに、運転している間中、亡くなった祖母の話をしていた。

 笛子の両親が共稼ぎだったから、幼い頃はずっと祖母のそばにいたそうだ。明るい人で台所でいつも流行りの歌謡曲を歌っていたんだとか。

「おしゃれな人でね。白髪をね。紫色に染めてたの」

話しながら、時折、笛子は涙ぐんだ。

 川沿いの道を走っていたワゴン車は、何時の間にか登り坂の続く山道に入った。グングン登るにつれて、山々のあちらこちらに紅葉した木々が見え始めた。遠くを見上げると、雪を頂く北アルプスの山頂があった。半分開けた窓から流れ込む風が冷たい。温度がかなり下がっている。しばらく行くと、左右に林が広がる道路に出た。白樺の白い幹がずっと続いていた。

 やがて、山間に小さく開けた集落に着いた。さほど広くない畑の間にぽつんぽつんと農家が建っている。一番奥の一軒の庭先に笛子は、ワゴン車を乗り付けた。

「到着」

 笛子は、さっさと降りた。ここがどこなのか、オレにはさっばり分らない。笛子はワゴン車の横に回って、ドアを開けた。見ると、後部の座席の間に大きなバケツが五つ置いてあった。

「運んで」

 命令口調だ。オレはちょっとイラっときた。こっちは大事な話があるんだぞ。

「どこへ持って行くんだ?」

「裏に庭があるから」

 オレはようやく思い出した。笛子が飛騨の山奥に祖母の作った庭があって、天国みたいに素敵なんだと言ってたのを。ここにその庭があるのか。

バケツの中身を見ると、五つ全部に球根が山盛りになっていた。何種類も入っている。笛子はそれを両手で持って、母屋の裏手へ運び始めた。問答無用か。仕方なく、オレもバケツを持って続いた。

 母屋の奥に、思いの他、広々とした空き地が現れた。

「ここがおばあちゃんの丹精していた庭。今は何もないけど」

 空き地のあちこちに桜や梅、山帽子やはなみずきなどの木が植えてあった。みんな、葉を落として裸木になっている。その間には立ち枯れた草が侘しく並んでいる。天国とはほど遠い寂寥感の漂う光景だ。

笛子は一旦、母屋の裏手にある作業小屋のようなところへ姿を消した。出て来た時は、手に二つ、スコップを持っていた。

「わたしが掘るから植えて」

 無駄口は一切きかず、笛子はスコップを持って、空き地の中央に立った。四方を見回し、おもむろに見当をつけた場所へ行って、穴を掘り始めた。黒い土が顔が出した。二十センチほど掘った笛子は、屈みこんだ。掌で土に触り、何かを確かめている。再びスコップを持って、今度はその穴の幅を広げ始めた。

「一応、話すから聞いてくれ」

オレは我慢しきれず、切り出した。手を動かす笛子に対し、オイさんと翠堂さんの関係、親方の思惑、笛子が追いやられた理由などを説明した。

笛子は何の反応も示さず、黙々と穴を掘っていた。

三十分もすると、直径一メーターほどの穴が出来た。笛子はそこに向かって、バケツの球根をどんどん投げ込み始めた。手当たり次第だ。

「おい、何してんだ」

「見てて分んないの。植えてるのよ」

「駄目だ。球根は間隔を開けて植えないと、花がちゃんと咲かないぞ」

「いいの。これがおばあちゃんのやり方だったの」

 笛子はオレの助言を一蹴して、バケツ一杯分の球根を投げ入れて行く。次は、又,別の場所に穴を掘り始めた。何を言っても、こいつは思った通りにやる気だな。オレはつき合うしかないと覚悟を決めて、スコップを持ち、穴掘りを手伝った。

笛子は時折、土に触れてじっと確かめていた。聞けば、土の温度を測っていると言う。

「おばあちゃんは土を舐めて、酸性かアルカリ性かを確かめてた」

 言いながら、笛子は土を口へ持っていき、顔をしかめた。

「馬鹿、食ってんじゃねぇよ」

「おばあちゃんがやってた事をそのまんま、受け継ぎたいのよ」

 頑固に言って、また、穴を掘った。オレは母屋の表に回って、ワゴン車から残りのバケツを持ち、裏庭へと運んだ。そして、出来上がった穴に、笛子と一緒に球根を投げ入れた。出来た穴は全部で五つ。土をかぶせる前にちょっと確かめてみた。

「これは水仙の球根だな」

「正解。こっちは何だと思う」

「わかんねぇ。球根の知識はあんまりねぇよ」

「これはクロッカスとチューリップ。色んな品種が混ざってる。咲いたら綺麗よ」

 結局、全部で、二、三百個ほどの球根を植えた。

「いつか祐二、云ってたよね。苗木には苗木の時間があるって。わたしは子供の頃、草や木や花の時間をここで感じてた気がする。木や花が話しかけてくれるみたいな、わたし一人の特別な時間。ここはわたしの大事な楽園だった」

「……うん」

「このまま、竹井造園にいてもいいのかどうか、それも判らなくなってたから、おばあちゃんに相談しようと思ったの。だけど、死んじゃった」

「………」

「この問題には、答えがないのかな」

笛子はその場にしゃがみ込んで、穴に向かって手を合わせた。これが笛子なりの弔いの方法なんだ。オレも並んで座って、一緒に手を合わせた。

 帰りの車中、オレは思い切って「悪かった」と謝った。

「言いすぎだった。どうかしてた」

「祐二は悪くないよ。あの写真見たら、怒って当然。だって、オイさんは浅尾の大事な人なんだから」

 ん? 浅尾だと? 何で今、あいつが出て来る?

「浅尾が好きな人だと判ってて、わたしが横入りしようとしてたとしたら、普通、怒るよ。友達の彼氏に手出すなんて、最低だもん」

笛子は、オレの思いとはちょっとズレた解釈をしていた。

「あの写真はね。浅尾のために撮ってあげてたの。浅尾にあげようと思ってね」

そうなのか。何だ、完璧、オレの誤解じゃねぇの。

「でも、オイさんの色っぽさに、わたし、かなり、ぐらぐらになってたな」

何だと。おい。

「カメラのファインダーからずっと見てると、オイさんて本当に体の動きに無駄がないんだよね。汗の染み出た背中見たりしてると、オトコ臭くて、ふらっとなりそうだった」

グサ、グサ、グサ。笛子の一言一言がオレに刺さる。

「中年親父でも、女癖悪くても、オイさんならいいや、なんて」

「………」

「浅尾の好きな人じゃなかったら、わたし、一夜限りの恋に落ちてたかもしんない」

オレは心臓をゴツンゴツン殴られてる気分だった。

「けど、あの人は無茶苦茶、だらしねぇ生活してたんだぞ。若い時からずっと」

「本当に凄いよね。オイさんもだけど、翠堂さんも。そこまで究極のドロドロだったとしたら、もう、いいとか悪いとかは言えないよね」

「………」

「浅尾も含めて、わたしたち若いのが口出し出来る世界じゃない」

「ちょっと停めろ」

「? 」

笛子が路肩にワゴン車を停車させた。オレは座席から降りて、外で煙草を取り出した。

一服して気を鎮めた。それから、たまんなくみっともないことは言わないように頑張って

話した。

「お前、そんな呑気なこと言ってるけど、オイさんのおかげで、うちから追い出されかけてんだぞ」

「うん……」

「それを何とかしてやろうって、オレはこんな山ん中まで来てんのによ」

「うん。祐二には感謝してる。世の中、不条理だな、とも思う。頑張っても頑張っても、うまくいかない」

「……」

「竹井造園には、やっぱり、営業が必要なんだよね。わたしがやれば、みんな、丸く収まるんだよね」

「嫌なんだろ」

 さっき球根を投げ入れていた笛子を見て思った。こいつは作業着を着て、体を動かしている時が一番様になってる。教職より営業より、絶対、植木屋が似合ってる。

「親方のあの圧には敵わないよ。わたし、これ以上は無理」

 オレはちょっと慌てた。

「待て。短気を起こすな。お前が現場仕事に戻れるよう、きっと、オイさんも翠堂さんも根回ししてくれる。オレにも、ちょっとした知恵がある」

 オレはここぞとばかりに力説した。

「諦めるな。今、辞めたら、頑張って来たことが無駄になっちまう。吉野さんも言ってたぞ。お前を辞めさせるなって」

「………」

「それとも、てめぇ、ここで尻尾巻いて逃げるのか」

「………」

「オトコ社会に負けて、すごすごと引きさがるのか」

「………」

「そんな情けないやつだったのか。お前はよ」

 笛子がジロリとオレを見た。ふんと鼻を鳴らした。

「わたしをやる気にさせるには、怒らせるのが一番って思ってるんでしょ」

「………」

「バーカ、あんたってホントに単細胞ね」

 笛子がちょっと笑った。

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