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自然と人間の相克を描く名作『ワイルド・ブレイブ』(ネタバレ)

あらすじ

映画『ワイルド・ブレイブ』は2018年公開のカナダ映画。『アクアマン』で主演を務めた俳優ジェイソン・モモアがメインキャストです。プロットはわりと単純で、モモア演じる主人公ジョー・ブレイブンの山小屋に麻薬ディーラーが運んでいた麻薬を隠したことが発端となって、ブレイブン一家がトラブルに巻き込まれてゆくというストーリー。

ジョーの父リンドン、妻ステファニー、そして娘のシャーロットを加えたブレイブン一家(=原題のBraven)が雪深い冬山で犯罪組織の人間たちと対決します。

評価について:あまり評価されていないのはなぜか

自分的には100点満点中100点だったのですが、なぜか評価が伸び悩んでいる印象。

これがどうしても納得できなかったので(個人的な意見です)そのわけを掘り下げる+この映画の良さを伝える! という目的でレビューを書くことにしました。

メインテーマは、「自然vs人間」

コチラの作品をアクション映画として楽しもうと思ったところからすべての間違いは始まります。まず、脚本家の意図は「痛快無比なアクション+雪山サバイバル劇」ではありません。

ではなにか?

それは、自然と人間の相克(そうこく:対立するもの同士の争いのこと)です。そして結論から言うと、人間はその争いに負けます。この「圧倒的な自然に敵わない人間」というテーマは実は伝統的なアメリカ文学でよくみられるテーマなのです。ココを理解することで、この作品の本質が見えてきます。

アメリカ独自の自然観と自然主義文学の相性の良さ:例 アンダスン『森の中の死』(A Death in the Woods)

アメリカ(北米)に開拓の歴史があるのはご存じかと思いますが、コレが独自の自然観を生みました。つまり、「圧倒的なパワーを持つ自然に敵わない人間」です。このテーマは伝統的に繰り返し様々な文学作品で使われています。その典型のひとつが、シャーウッド・アンダスンの短編『森の中の死』です。

〇夫と息子と家畜にエサやりをし続け、やがて冬の森の中でひとり哀しく息絶える老婆

『森の中の死』は田舎町に住む、名もない老婆のお話。あらすじとしては、家族に虐げられ、親しい友人もなく、村人に疎まれている彼女がある冬の日、村で買い物をして帰ってくる途中で低体温症になり、そのまま息絶えます。

ここで注目したいのは彼女の死に場所です。彼女は、タイトルのとおり「森の中で」死にます。そこは、人の手の入っていない「自然」であり、また、冬の寒さも「自然」。人の力の及ばぬ「外部」が原因で老婆は命を落とすのです。

〇自然主義文学も人間の運命を決定づけるのは「外部」(環境・遺伝)と規定

ここでこのアメリカ独自の自然観が、自然主義と妙に相性がいいことに気づきます。

まず、文学における「自然主義」運動を始めたのはフランスのゾラです。彼はダーウィンの「進化論」から大きな影響を受け、人間の性格を決定づけるのは遺伝と環境、すなわち外的な要因であると定義づけました。そして人間の自由意志を否定し、環境からは逃れられないのだという前提のもとで作品を書き、一大ムーブメントとなりました。

この自然主義運動がやがてアメリカに入り、作家たちに影響を与えてゆきます。そしてアメリカ文学特有の自然観――入植以来厳しい気候、すなわち荒野(Wilderness)と闘ってきたという北米独自の歴史に根差す「自然と人間の相克」というテーマーーと相まって深みを帯びてゆくことになります。

人間が「遺伝や環境」に負け、本能のままに行動してしまう(動物化してしまう)という「進化論」に基づいた価値観と、人間が「圧倒的な大自然」に敗北する、というアメリカ独自の自然観とはなぜか親和性が高いのです。

メインテーマが「人間vs自然」で、かつ人間が自然に敗北する、とする根拠

それではここで映画に戻りましょう。ここまで読んできてくださったらわかるかと思いますが、『ワイルド・ブレイブ』を書いた脚本家は銃撃アクションやスリリングなマンハントをメインテーマとして書いていません。その証拠が随所に見られます。

1. 製材所のモチーフ:「自然」を利用しようとする人間が罰される

まず、舞台が山から材木を切りだす製材所です。主人公ジョーはここのオーナーであり、麻薬の運び屋はその部下。そして、彼が偶然にコカインを山小屋に隠すハメになったのも、木材運搬中のスリップ事故です。恐ろしいほどにすべてのつじつまが合います。

つまり、自然を「利用(あるいは支配)」しようとした人間がその報復を受けているように見えませんか? 一種ホーソーン的な、ピューリタン的価値観(科学技術を使ってすべてを支配しようとする〔=神になろうとする〕人間に罰が下る)が垣間見えるような気がします。

2. 主人公の父親が「自然に」死亡

ジョーの父親、リンドンは過去の事故によって脳にダメージを受け、認知症になっています。これがもとでジョーとの関係がうまくいかなくなったため、ジョーの妻に提案されて2人きりで山小屋に行くことにします。ここで和解を通して家族の絆が再び強まり、さらに悪党に勝ってハッピーエンドになるはずではなかったのか? 多くの人はリンドンが殺されたときにそう思ったはずです。しかし実は、リンドンはここで死なねばならなかったのです。

〇リンドンが「施設には入らない」と言った意味

リンドンはジョーとの確執の中で、「施設には入らない」とはっきり言います。認知症が進み、だんだん生活がままならなくなってきたことを自覚はしていますが、「自分は父親を施設には入れなかった(自然に死なせた)」と主張。人の手を借りて生き延びることを頑なに拒否します。

実はこのセリフが核心をついています。リンドンは「施設には入らない」=「自分の力だけで生きる能力がなくなった時点で死にたい」と言っています。それはすなわち文明や科学技術から最も離れたところで「自然に」死にたいということであり、動物の死に近い死でもあります。

それをリンドンが望んでいた。これがわかると、彼の死は悲劇ではなくなります。

〇リンドンの死は悲劇ではない

結果的に、彼は形としては「殺されて」しまったのですが、実は彼の望み通り「自然に」(来るべきときに)「自然の中で」死んでいます。認知症はこれから先よくなる見込みもない。(この辺りご都合主義にならないところがいい)「家族の絆」や「意志」で乗り越えられるものではないから。その上彼は孫のシャーロットを救って「名誉の戦死」をしています。つまり昔ながらの山男に一番ふさわしい、華々しい最後だったのです。

3. 銃を使った人間はことごとく死亡:大自然を前にしたときの、人間の文明・科学技術の無力さを表現

この作品のレビューで多かったのが、「目の前に銃が落ちているのになぜ斧とかボウガンとかトラバサミとかばっか使うのか? 意味わからない」という感想。しかし、この一見無意味なカッコつけに見えるチョイスにも実は意味があるんです。

〇最強の武器・銃も大自然には敵わない

よくよく見てみると、猟銃やショットガンなどの本格的な銃を使った人(リンドン、麻薬ディーラーたち)はことごとく死亡しています。対照的に、ボウガン片手に乗りこんできたステファニーや武器を持たなかったシャーロット、そして斧やトラバサミや火炎瓶など古風な武器ばかり使ったジョーは生き延びています。これは何を意味するのか? シンプルに考えれば文明の利器が自然の中でいかに無力か、ということを示していると見ることができます。同じようなモチーフのひとつに役に立たなかった車があります。

4. 大自然が舞台

〇冒頭に映される山々と海

オープニング映像に心奪われた方も多いでしょう。北米の雄大な山々と広大な海。雪化粧した森の木々に、広がる雪原――これを見られるだけでも価値があるというものです。

この美しい風景はしかし、同時に人間に試練も与えます。厳しいからこそ美しいのが自然というものかもしれません。人里離れた雪山の中で、人間は無力――携帯も無線も通じず、車も銃も使えない。ひとたび天候が悪化したり、夜になったりしたらひとたまりもない――そういう厳しい場所を舞台に設定することで、「自然に敗北する人間」「外的要因に運命を決められる人間」というテーマをうまく表現しています。アンダスンの『森の中の死』ともシチュエーションに共通点がありますよね。

まとめ

つまり、主人公がトラバサミとかを使ったり、その父親が死んだりしたのにはちゃんとした理由があったわけです。「なぜ銃を使わないのか」とかいう疑問はお門違いであると言わざるをえません。ジョーが頑なに銃を手に取らないことこそが、作品のキモなのですから。(唯一手にしたのは父親が銃撃されたときだけ。しかも小っちゃい銃)

『ワイルド・ブレイブ』は基本的にアクション映画として書かれていません。一般向けにするためにとかいろいろな事情で「それっぽく」宣伝されたり脚色されたりされたのでしょうが、物語のテーマがかなり深みを持ったものだということは明らかです。表題のBravenも、ブレイブ(勇気)とかけたという単純な話ではないと思います。これはむしろ皮肉であり、大いなる自然の中で人間の「勇気」や「意志」が何の力も持たないことを示唆しているのでしょう。

これほどの良作には久々に出会いました。観たあとに心が満たされるような素晴らしい映画です。観ていない方はぜひご覧になってみてください。

※こちらの記事は以前サイトに掲載したものを転載しています。

作品情報

制作国: カナダ、2018
監督: リン・オーディング

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