ブルシットジョブは「心のガン」

 定期的に似たような投稿をしてしまうが、ブルシットジョブというのは本当にイライラする。人生で取り組んだ行為の中で最も退屈だし、ストレス度合いもトップクラスだと思う。ブルシットジョブをやっていると常に不機嫌だし、人に対しても当たり方がキツくなってしまう。

 会社などでしばしば常に不機嫌な表情の人がいると言う。あれも多分ブルシットジョブのせいなのではないか。会社以外の環境ではあまり観測しない。少なくとも一時的だ。「慢性的な不機嫌」というのは珍しいのではないか。

 ブルシットジョブは身体にも悪い。例えば私はブルシットジョブを行っている時は常にカフェインを摂取している。最近は緑茶に切り替えているが、以前はコカ・コーラばかりを飲んでいた。このせいで虫歯が激増し、危惧感を感じていた。虫歯だけではなく、歯の摩耗も激しくなったと思う。ブルシットジョブをやっている時は常に歯ぎしりしているからだ。

 子供の頃は頭脳労働というと天才博士の延長のようなカッコいいものを想像していたが、実際の頭脳労働は想像の何倍も酷いものだった。せっかく知的生命体として生まれたのに、脳のキャパをこんなことのために使わないといけないのか。そう思うとますますストレスが激しくなる。

 ブルシットジョブにも色々ある。無駄な会議はやり玉に挙げられるが、私はそこまで苦痛に思わない。無駄な会議はぼんやりと妄想にふけっていれば良いからだ。無駄な会議はBGMとして心地よく、創作のネタがポンポン浮かんでくる。

 本当にムカつくのは無駄な書類仕事だ。いや、無駄ではないのかもしれないが、本当にイライラする。脳みそに数百のカミソリの刃を突き立てられている感覚だ。なぜここまでイライラするのか自分でも分からない。昔っから事務手続きは大嫌いだった気がする。市役所に行ったときとか、受験の出願の時とかも、本当に苦痛だった。だが、本当の地獄が始まったのは社会人だ。朝から晩まで死ぬほど嫌いな事務仕事ばかり。本当にうんざりするし、いつも死んでしまいたいと思う。

 ブルシットジョブを日常的に行うようになってから、意欲や幸福感は壊滅的に下がったし、健康状態も悪化した。正直、社会や将来といったものに前向きな態度が取れなくなってしまった。誰がこんな醜悪な物を作り出したのか。探し出して◯してやりたい思う。

 ある意味でブルシットジョブは幸福感をもたらしているのかもしれない。ブルシットジョブから解放されると晴れ晴れとした気分になるからだ。健康は失って始めてありがたさに気付くと言われるが、その感覚に近いかもしれない。正直、仕事というものは病気の治療に感覚としては近い。

 ブルシットジョブが日常を侵略してきてから、私は人間関係のストレスが無くなった。ブルシットジョブに比べれば嫌いな人間との関係など大した苦痛ではない。というか、ブルシットジョブ以外に対する精神的苦痛がほとんど無くなった。職場で無能扱いされたり陰口を叩かれても、何も感じない。ブルシットジョブなんてできて嬉しいか?

 誰も幸せにしないブルシットジョブ。誰がこんな物を考えだしたのだろうか。一つはブルシットジョブを作り出す人間は、ブルシットジョブの被害を受けにくいという可能性があると思う。人間はフィードバックがないと平気で無駄遣いをしてしまう。人使いが荒い上司や厄介な迷惑客は、ほんの些細な思いつきのために人に多大な労力を掛けさせる。その事によって彼らが受けるメリットは非常に少ない。ブルシットジョブも似た感覚なのではないか。

 例えば偉い人はパワポのフォントに異常にこだわったりする。そのことによって偉い人はほんの少し資料の読み取りが楽になるかもしれないが、そのために部下は末端に至るまで、多大なる労力を掛けることが多い。偉い人が気まぐれで思いついた数字を探り出すために何人もの人間の何時間もの人生が削られていく。

 ブルシットジョブから解放される日は来ないのだろうか。むしろこの手の事務仕事はどんどん増加している兆候がある。年取って引退すればマシになるだろうが、その頃には本当の病気になっているだろう。人生、真っ暗である。

 まあ、それでも幸福の形を発見できたのは大きいかもしれない。「ブルシットジョブをしない幸せ」というものを見いだせるようになったからだ。こうしてnoteを書いている時もそうだ。細かい数字を転記したり、無駄に過去の事案を整理したり、管理職の決済のために二重三重に手続きを行ったり、という行為をしないで良いのはありがたい。本当に病気が治ったような感覚だ。 

 いつかブルシットジョブという「心のガン」から全人類が苦しまないで良い世の中を願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?