スキャンダルの度に思う、一部フェミ(あるいはアンチフェミ)への疑問

 最近、松本人志にスキャンダルが浮上し、世間で物議を醸している。この手のスキャンダルは昔から珍しいことではないが、最近コンプラ等が厳しくなっていることもあり、問題とされる頻度は確実に増えている。

 ところで、この手のスキャンダルに関して昔から疑問に思っていることがある。事実の存否の問題と、事実の解釈の問題を履き違えている人間が多いのではないかということだ。例えば性加害の問題が浮上したとして、争点は二種類存在する。

①被害女性との間に当該行為が本当にあったのか。
②被害女性との間の行為は違法ないしは不道徳なのか。

 道徳論争が巻き起こるのは普通は②に関してである。道徳問題のケーススタディも基本は②がベースになっているはずだ。例えばエホバの証人の子供に輸血が許されるか否かと言った問題は、事実認定を巡って争っている訳では無い。あくまで事実に争いはない上で、その行為の良い悪いを争っている訳である。

 ところが、なぜか一部のフェミニストは①の問題に関して女性側の肩を持つ時がある。典型例は草津町長を巡って起きた一連の騒動だろう。被害女性の告訴が実際は真っ赤な嘘であったことが後に明らかになったのだが、有名なフェミニストはそのことが明らかになるまで草津町長を誹謗中傷し続けた。「セカンドレイプの町・草津」というキャッチコピーが流布され、町は大きな風評被害を被った。ついでに言うとアンチフェミに関しても同様のことが言えるかもしれない。

 痴漢冤罪を考えたとしても、争点になっているのは痴漢行為が存在したか否かで、痴漢が犯罪であることに異論の余地はないはずだ。ここに政治的・道徳的論争の介在する余地はない。ところが、一部フェミニストはこういう時に男性の悪辣さを強調し、女性の置かれている構造的な問題について主張する。どうにも論点がズレている気がしてならない。一部アンチフェミはたぶんこの逆である。

 というわけで、松本人志をフェミニストが批判しても、妥当なのかという疑問はある。事実認定が極めて不明確な状態で女性側の立場に立って松本人志を批判しても、どうにも不当なのではないかと思ってしまうのである。因みに「飲み会に行く女が馬鹿」という批判も同様である。このような論争は事実がもう少し明らかになってからするべきではないか。

 とは言っても女性側が被害を立証しにくい現状や、セカンドレイプ問題等で声を上げにくい現状があるため、事実認定の問題に関してもフェミニストが声を上げるのは仕方ないのかもしれない。ただ、やはり事実認定の問題を属性や政治的立場で肩入れするのは見ていてモヤモヤする。いつかのOJシンプソンの事件に良く似ている。この事件ではOJシンプソンが妻を殺したか否かが問われていたのだが、途中から人種問題にすり替えられ、奇怪な無罪判決が下った(のちの民事裁判ではOJシンプソンの殺人が立証された)。

 実際に松本人志と被害女性の間に何が起きたかは今後明らかになるだろうから、それを待っても良いだろう。正義論(いや、性議論か?)の段階では無いのではないか。まあ、たぶん実際は想像以上にゲスい話になると思うが、裁判の行方が気になるところである。

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