村上春樹と人生の熱的死
宇宙の終わりに関する概念として「熱的死」というものがある。知っている人も多いかもしれない。エントロピー増大の法則によれば、宇宙の「乱雑さ」というものはどんどん大きくなっていく。水に垂らしたインクがもとに戻らないように、熱い物質と冷たい物質が混合した場合、中間の温度になってそれ以降は変化しなくなっていく。宇宙規模でこれが究極に推し進められると、宇宙の全てが同じ温度になって、それ以降永久に変化しなくなっていく。ビッグクランチ論のように宇宙が消滅するわけではないものの、それ以降の宇宙には何も出来事が起きなくなっていくため、終わっているのも同然だろう。だから、「熱的死」という言葉が充てられている。
筆者は以前、30を過ぎると人生は終わりという話を聞いたことがある。どういうことなのか不可解だったが、なんとなく言いたいことは判ってきた。もはや人生に新たな変化や楽しみが訪れることはなく、現状維持だけが目的となり、あとは枯れるだけという状態である。実際、ある程度の年齢になると交友関係や興味関心が更新されなくなるという人が結構いる。ジャネーの法則といって年齢が経つごとに時が過ぎるのが早くなるという話があるのだが、これも物事に無感動になることが関係しているのかもしれない。ある意味で熱的死に近い概念だろう。
筆者が村上春樹で一番好きな作品は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」である。筆者は「世界の終わり」というタイトルからてっきり巨大隕石が落ちてくる「アルマゲドン」のような作品をイメージしていたのだが、村上春樹の描いた人生の終わりは壁に囲まれた小さな街だった。その街には住人がいて、日常があって、永遠にそこに留まり続けるのである。主人公はその街の住人として永遠の生に囚われるはずだったのが、色々頑張ってその運命を免れることに成功する(とエンディングでは示唆されていた)。
村上春樹の別の名作として「ノルウェイの森」があるが、そこでは「死」について「死は生の対極ではなく、一部として存在する」と言及されていた。村上春樹の考える「死」は動的なものではなく、静的なものだという点で興味深い。この概念は人生の熱的死に近いかもしれない。死とはその状態が永遠に変化しなくなることであり、生とは常にダイナミックに動いていることなのだ。海辺のカフカでも壁に囲まれた街と似たような区域が登場したが、そこにいる人は故人だった。
「余生」という概念は「変化」が極力排除された状態とも言うことができる。魂の安寧とは足るを知り、現状を受け入れ、なにも求めなくなる状態だからだ。ただ人生は簡単にはいかない。老いや病気は避けられないし、インフレや戦争で生活が営めなくなるかもしれない。それを考えると、穏やかな余生を送るのも難しそうだ。そう考えると人生の熱的死が良いことなのか悪いことなのかも、わからなくなってくる。永遠の生を手に入れたところで、そこに待っているのは静的な意味での「死」かもしれない。ただ筆者は村上春樹が描いたような壁に囲まれた街で一角獣を眺めながら人生の熱的死を楽しむのも悪くは無いと思っている。
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