見出し画像

なぜ王家の女系継承は珍しいのか

 現在、日本の皇室では女系継承の是非が議論に上っている。日本の皇室に限らず王朝の殆どは元々は男系主義である。しかしこれは生物学的に自明ではない。生物学的に重要なのはむしろ女系子孫だからである。
 自分の地位と財産を子孫に継がせたい人は多い。これは人間が古来から持っている根源的な本能である。しかしここで男系子孫と女系子孫を区別する意味はない。どちらも血縁の相関は同じだからだ。比較するならば男系子孫に父性の確証問題が発生することを考えると、浮気リスクのない女系子孫の方が自分にとって生物学的に重要と言えるだろう。
 ではなぜ近代以前の王族において女系子孫への継承が行われないのだろう。それは途中で婿を取る必要があるからである。

 近代以前の王朝において婿取婚は稀だ。男系だろうが女系だろうが、近代以前の社会では政治的役割を果たすのは男性であるという原則があった。婿取婚を行えば政治の実験を握るのは婿なので、みすみす余所者に権力を渡してしまうことになる。婿が権力を握っても女孫に継承権が行けばまだ良い。婿が庶子に王座を継がせる危険もある。そうなれば完全に余所者による王朝乗っ取りと言えよう。王家の女系継承が行われないことには「婿リスク」という強力な理由があったのである。

 男系氏族主義が強い文化圏のもとでは女系継承は更に困難だ。女系子孫はヨソの氏族に嫁いだ人の子供なので、ヨソの氏族の人間ということになる。数ある男系親族を差し置いてヨソの氏族の人間にあとを継がせるというのは男系共同体家族において許されない行為である。
 例外は族内婚だ。娘の結婚相手が同じ男系氏族の人間であればヨソの人間を入れないで済む。この形式で実質的な女系継承が行われた例については後ほど説明する。

 歴史上の王朝で形式上女系継承が行われているケースは存在する。しかし欧州の一部を除いてそれらは全て政争や偶然の結果であることが多い。近代以前の世界では女系継承は欧州以外存在しなかったのである。

女系継承とは言えないケース

 近代以前の王朝では前の王朝の女系子孫が王位についているケースも有る。しかしこれらは女系継承というより偶然や政争の産物であることが多い。

陳朝のケース〜簒奪の帳尻合わせ〜

 ベトナム王朝のうち、李朝と陳朝は形式上女系継承である。陳朝の初代皇后は李朝の娘であり、それ以降も血筋が引き継がれていたからである。しかし、これを普通の女系継承とするのには無理がある。なぜならすでに李朝は外戚の陳守度という有力者によって乗っ取られていたからである。彼は陳一族による簒奪を完成させるために甥を李朝の娘と結婚させ、それ以外の李朝の王族を抹殺した。女系の血筋は王朝簒奪のための形式的なつじつま合わせに過ぎなかったのである。

ティムールのケース〜血筋の箔つけ〜

 史上最強の武将として名高いティムール。彼はモンゴル系の出自で中央アジアから中東にかけてを一代で征服した傑物である。彼は自分を権威づけるためにチンギスハンの男系子孫の女性と結婚し、チンギスハンの婿を名乗っていた。ティムールの子孫はやがてインドを征服しムガル帝国を建国した。彼らはチンギスハンとティムールの子孫を名乗っていた。ティムールは成り上がり者だったが、王家の血筋を女系で混ぜることで子孫の権威付けを測ったのである。

足利家のケース〜偶然の女系継承〜

 室町幕府初代将軍の足利尊氏の妻は北条登子である。彼女は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹だ。彼女の血筋はその後も足利将軍家に引き継がれたため、北条の血筋は室町幕府でも生き続けたといえる。
 しかしこれもまた女系継承とするのは無理がある。これは単なる偶然にすぎないからだ。足利家は北条家と関係が深く、閨閥の関係である。そのために足利家は有力大名になった。しかし、足利家の政権獲得は武力による内戦の結果であり、女系の血筋を見込まれたわけではない。単に北条氏と結びつきの強い有力大名の一人が成り上がったに過ぎないのだ。

遠縁の男系の中から女系で近い人間が選ばれるケース


預言者ムハンマドのケース〜アラブ社会の近親婚〜

 アラブ世界は男尊女卑が非常に強く、女系継承は以ての外である。しかし女系の血筋が評価されたケースもある。預言者ムハンマドその人である。
 ムハンマドには成長した男児がいなかった。そのためムハンマドの血筋として唯一残っているのが娘のファーティマである。彼女はムハンマドの従兄弟であり養子であるアリーと結婚した。アリーはムハンマドの権威を引き継ぎ第4代正統カリフとして崇拝される存在だ。アラブ世界では族内婚が当たり前なのである。
 イスラム世界ではアリーとファーティマの子孫がムハンマドの血筋として尊敬されている。シーア派の教義の根幹にあるのも血筋だ。男尊女卑のアラブ世界で、よりによってムハンマドの血筋が女系継承されたというのは皮肉である。
 余談だが、最初の妻のハディージャや後妻のアーイシャなど、イスラムの初期には女性の影が目立つ。男尊女卑のアラブ社会でも強く生きていた女性はいたのだ。

徳川綱吉のケース〜子宝に恵まれない苦悩〜

 徳川綱吉は子供に恵まれないことに悩んでいた。江戸時代の大名はなぜか子供が早死することが多く、後継者に恵まれない人が多かった。綱吉もその一人である。生類憐れみの令の例は子宝に恵まれるための縁起担ぎともいわれている。
 綱吉の子で夭折しなかったのは娘の鶴姫だけだった。綱吉としてはなんとか自分の血筋を継承させたい。そのため遠縁の紀州徳川家から徳川綱教を呼び寄せた。二人の子供が将軍を継げば綱吉の血は継承されるわけである。しかし、鶴姫はすぐに亡くなり、徳川綱教は追い返された。女系継承を試みたが失敗したケースである。

ヴァロワ朝のケース〜史上最悪のウェディング〜

 16世紀末、フランスは激しい内戦に襲われていた。ユグノー戦争である。この戦争は単なる宗教戦争ではなく原因は色々あるのだが、その一つがヴァロア朝の後継者問題である。
 アンリ2世は跡継ぎに恵まれず、即位した息子たちは次々と死んでいった。残ったのは娘のマルグリットである。フランスはサリカ法を採用しており、男系絶対主義である。したがって先王の女系子孫を差し置いてかなり遠縁の傍系王族が即位することになる。白羽の矢が立ったのはブルボン家のアンリ4世であり、彼とマルグリットが結婚して子孫が王位を継げば女系で先王の子孫が残ることになる。
 結論からいうと、この計画は失敗した。細かい経緯は複雑なので省略するが、アンリ4世の結婚式は大虐殺となりユグノー戦争激化の引き金になった。世にいうサン・バルテルミーの虐殺である。しかもマルグリットとの仲は悪かったため最後まで子供ができなかった。徳川綱吉と同様にヴァロア朝の実質的な女系継承は失敗したのである。

アケメネス朝ペルシャ帝国のケース〜婿による乗っ取り?〜 

 アケメネス朝ペルシャ帝国のダレイオス大王はペルシャ史上最も偉大な王の一人に数えられる。しかし彼は継承に少し怪しいところがあるのである。
 ダレイオスは先王の息子ではない。キュロス大王の娘に当たるアトッサと結婚しているので先王の婿にあたる。アケメネス朝の血筋を引いてはいるが、随分遠縁である。どうにも怪しい。現にダレイオスの即位後に全国で反乱が起きている。ダレイオスは傍系王族が王女に近づいて王朝を簒奪したのではないかという疑惑が立つ。一説には系図は捏造で王家の遠縁ですらないのではないかともいわれる。

旧皇族のケース〜ご都合主義?〜

 明治天皇の玄孫として知られる竹田恒泰氏は皇位継承に関して男系絶対論者である。しかし、竹田恒泰氏は旧皇族であり、彼らの系図が皇室から別れたのは室町時代のことだ。明治天皇の玄孫というのは明治天皇の娘の一人が竹田家に嫁いだからであり、女系の話なのだ。
 随分と都合がいい話に聞こえるのはさておき、竹田氏は皇室後が絶えた場合に旧皇族の中で女系で現皇室に近い人物を即位させることを主張していた。これは形式的に遠縁でも男系を守りつつ、実質的に女系で先帝に近い人物を選ぶという点で両方に配慮したハイブリッド方式といえる。
 同様に現在の内親王と男系遠縁の旧皇族結婚させ、その子孫を皇族として継承してもらう案もあるらしい。実質的な女系継承をしながら形式的には男系を守るということである。

普通の女系継承

 男系絶対主義の例外は欧州である。欧州の周辺部では特に女系継承が行われるケースが多かった。その理由として考えられるのが厳格な一夫一妻制である。
 欧州では一夫一妻制が原則で、庶子による王位継承が認められなかった。したがってアジアのように王がハーレムで多数の息子を設けるという仕組みが機能しない。現に欧州ではアジアで見られない頻度で王家が断絶している。王族の数が少なかったため、女系継承を認めざるを得なかったのである。

英王家のケース〜女系による王朝交代〜

 英国の歴代の王族は全て一人の王・ノルマン朝ウイリアム1世の子孫である。英国の王朝は何度も絶えているが、そのたびに女系を辿って別の家の人物に白羽の矢が立ち、国王に即位しているのである。女系による王朝交代が何度も行われているのだ。 
 例えばノルマン朝がすぐに途絶えた後、ヘンリー2世の姉が嫁いだブロワ家とヘンリー2世の娘が嫁いだプランタジネット家のどちらが王位を継承するかで争いが発生し、勝利したプランタジネット家が英国を支配した。
 似たような話は百年戦争や薔薇戦争でも繰り返される。争いの引き金にはなるが、英国は王位の女系継承が普通に行われていたのである。

ロマノフ朝のケース〜混乱した王朝国家〜

 英国と並んで数多くの女帝が見られるのがロシアである。ロシアは遅れた国で、王位継承のルールもメチャクチャだった。先帝に男児がいないと妻や娘や娘の嫁ぎ先の男児など適当な人物を選んで即位させるのである。エリザヴェータやアンナといった女帝はこうして誕生したし、ピョートル3世やイワン6世は皇女の嫁ぎ先から連れてこられたドイツ人であった。
 パーヴェル1世以降は皇位継承が安定し、先帝の男児が安定して皇位に付く状況が続いた。 
 ちなみにロシア史上最も偉大な女帝エカチェリーナ2世は女系継承ではない。ドイツから嫁いできた貴族の娘がクーデターで皇位を簒奪したのである。

ハプスブルク家のケース〜女系継承のチャンピオン〜

 「なんじは結婚せよ」これはハプスブルク家の家訓として知られる。ハプスブルクは女系継承によって大帝国を築いた幸運な家系である。もともとは神聖ローマ帝国の一諸侯だったが、女系継承で次々と領地を手に入れた結果、カール5世の時代には中東欧・スペイン・ネーデルランドを支配する大王家になったのである。
 さて、18世紀になると困った自体が起きた。跡継ぎが女子のマリアテレジアしかいないのである。神聖ローマ帝国の帝位は男性しか引き継げない。このために婿取婚が行われた。ロレーヌ家のフランツが西方よりやってきてマリアテレジアの婿となったのである。神聖ローマ帝国フランツ1世の誕生だ。これ以降のハプスブルクは男系ではロレーヌになるため、ハプスブルク=ロートリンゲン家と正式には呼ばれる。
 フランツ1世は神聖ローマ皇帝ではあったものの、全く立場はなかったらしい。ハプスブルク家の家長やハンガリー王位といったその他の称号はマリアテレジアが持っていたし、政治の実権を握っていたのも彼女だからだ。婿としてハプスブルク家で生きるのは結構キツかったようだ。しかしそれは多くの男系主義大家族で女性たちが味わった辛さなのだ。

奥州藤原氏

女系継承と言えるか非常に微妙なケースであるが、比較的欧州風の女系継承による王朝交代に近い経緯を辿ったのが奥州藤原氏である。彼らは奥州を支配していた安倍氏の女系子孫だからだ。当時の東北には安倍氏と清原氏という大勢力がおり、前九年の役と後三年の役で朝廷の軍と死闘を繰り広げたのであるが、安倍氏の滅亡後に清原氏と彼らは姻戚関係を結び、いつしか東北一円を支配するようになっていたのである。

現代の君主家〜増えていく女系継承〜

さて、現代の君主国では女系継承が行われるケースが増えている。特に欧州の立憲君主国で顕著だ。このような改革が起きた原因はなんだろうか。

君主の政治離れ
 
現在でも政治権力者の大半は男性だ。一昔前はその傾向が非常に激しかった。男性しか政治ができないとなると、君主は男性であるべきという考えには一定の理がある。
 ところが近代になると君主が政治に深く関わらないケースが増えた。ヴィクトリア女王がいい例だ。君主が政治に関わらないとなると婿が政権を簒奪するリスクがないし、女王とその子孫が王位を継承していくことに何の問題もないのである。

少子化
 近代化によって人間の家族形態は大きく変わった。今は五人も六人も子供を生む時代ではなくなっている。ハーレム制度が許容される余地もない。したがって現代の先進国の君主は多くて3人程度しか子供を儲けない。そうなると娘しかいない君主も増えてくる。先王に娘がいるのにそこを無視して遠くの男系親族に王位が渡るのも国民からすると違和感があるだろう。女系を認めたほうが安定した継承が可能なのである。

女性の地位の上昇
 これも大きな要因である。女性の社会進出によってもはや男性しか公職につかない時代は終わった。君主に関しても男女を区別することにほとんど意味がないという認識が強まっている。
 一般国民は完全に男女平等の相続制度の上で生活しているし、核家族化が進んでいる。現代人は男系女系の区別すらつかない人間が多い。王家だけが例外というのも不可解だろう。立憲君主は国民に敬愛されることに意味があるとされる。一般社会の常識から大きくハズレた制度を続けることは不可能なのである。

 かくして現在の欧州では王家の女系継承が増えている。中世のように女系継承により王朝交代するのではなく、女系でもそのまま王朝が存続すると決められる事が多い。欧州の立憲君主国のうち、スペイン・オランダ・ベルギー・スウェーデン・ノルウェーは王位継承者が女子である。スペインは一応男子が優先という決まりになっているが、変わるのは時間の問題だろう。 

 さて、日本はどうだろうか。取るうる制度は3つしかない。女系を認める・旧皇族を復活させる・側室制度を作る旧皇族と女性皇族を結婚させるである。
 この中で側室制度は問題外だ。一般国民の常識からかけ離れているし、欧州の君主国から見ても異様に映るだろう。中東など一夫多妻を行っている君主国もあるが、そもそもこれらの国は立憲君主国ではないし、日本が参考にできる国ではない。大正天皇の代から側室は作られていないし、復活の見込みもない。
 旧皇族の復活はまだ可能性としてあり得るが、あまりにも血筋が遠すぎ、国民に違和感を持たれるかもしれない。彼らが皇室から枝分かれしたのは中世だ。男系で40親等ほど今上天皇と離れている。女系で明治天皇と繋がっている家が多いとはいえ、戦後長らく馴染みのない存在だ。現在の皇室の女性陣全員を差し置いて彼らが即位するというのも国民からすると不思議な話だろう。
 一番可能性が高いのは女系の容認だが、これも簡単には進まないだろう。多くの国民にとっては家族制度から男系継承という文化が廃れて等しいし、男女平等の気風も浸透している。理解を示す国民は多いはずだ。問題は歴史的に一度も例がないことだ。2000年の伝統を、時代に合わないからといって簡単に変更することは難しい。反対意見は今後も出続けるだろう。
 旧皇族と女系のハイブリットという折衷案もある。先程述べたような形式的な男系と実質的な女系を両立させるために旧皇族の男系男子と女性皇族を結婚させるという方法である。しかし、これも問題がある。当事者の自由恋愛を無視しているのだ。小室夫妻の結婚騒動はまさにこの手の問題が顕在化しうることを示唆している。このような結婚制度は人権侵害に当たる危険性を孕んでいる。
 
現在の皇室の現状や社会通念を考えればいずれかの道をたどることは避けられないだろう。先帝の生前退位がそうだったように、十分に議論が熟し、国民の意見対立が収束したその時に「御聖断」が下るのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?