見出し画像

疑似科学や陰謀論の生まれる構造を数学的に考える

 世の中にはうさんくさい疑似科学や陰謀論が溢れている。その中には根拠がまったくないものや、明確に事実誤認を犯しているものも多数存在する。それらは単純にインチキなので、反証すれば良いだろう。

 ところが、世の中には直感的に間違っていそうにもかかわらず、反証が難しい、というより原理的に不可能な言説も存在する。ネット上の過激な社会評論とか、マルクス主義と言ったものもそうだ。他にも陰謀論とかネトウヨの荒唐無稽な歴史観などが挙げられる。こうした過激な意見は世間に受け入れられる余地が無いが、その理由を聞かれてみると、以外にはっきりとは答えられない。この手の過激論客の主張は論理的に正しい事が多く、「常識だから」といった押し付けがましい意見以外では反論できないのである。これは議論と理知を重んじるインテリにとってはモヤモヤする状態だろう。

 ところで、このような数字が並んでいたとする。

    1 3 5 7 9 □

 □に当てはまる数字は何か。普通の人間は「これは奇数だ!」となるだろう。したがって、□の中には「11」を入れるだろう。理論家はここに$${An=2n-1}$$という一般項を見出すだろう。

 ところが、これは自明でも何でもない。じつは□の中にはありとあらゆる数字を入れる事ができるのである。例えば12という数字の場合はどうか。このような一般項を考えてみよう。

 $${An=\frac{(n-1)(n-2)(n-3)(n-4)(n-5)}{120}+2n-1}$$

 この場合、□に入る数字は12になる。数式を操作すれば、12が来るような数式も簡単に作れてしまうのである。

 13にしたければこうなる

 $${An=\frac{(n-1)(n-2)(n-3)(n-4)(n-5)}{60}+2n-1}$$

 他にもいくらでも数式を考えることができる。□には任意の数字を入れることができるのだ!!

 ここで重要なのは、「1 3 5 7 9」という数列の後に「11」を入れる根拠が、論理ではなく常識の問題だということだ。ここに $${An=\frac{(n-1)(n-2)(n-3)(n-4)(n-5)}{120}+2n-1}$$という一般項を見出すのは「荒唐無稽」かもしれないが、論理的には正しいのである。$${An=2n-1}$$という式の方が「きれい」で「常識的」という主張も「お前の感性だろう」と言われればそれまでであり、相手を論破するだけの論拠にはならない。「自分は□に入る数字は12だと信じて疑わない」という主張をされたら反論は難しい。相手に感性を押し付けようとすると、それは「言論封殺」ということになる。一般人はどこまで抵抗が無いのかもしれないが、インテリはこの手の行為が不正だという共通見解を持っているため、お互いが手詰まりになる。

 というわけで、陰謀論者や過激論者を「論破」することは原理的に不可能だと考えて良い。これらの意見は全て論理的に正しく、当否を判断するのは感性だからである。突き詰めればこの手の意見対立はきのこたけのこ戦争と変わるところがない。ニーチェは事実は存在せず、解釈のみが存在すると言った。まさにこれらの人物の論争は解釈論の世界なのだ。

 したがって相手の意見を変える方法があるとすれば、共感させたり興味を失わせることだ。ところが陰謀論者や過激論者に対抗する人間はしばしば論破すようとするので、逆効果になる。自分のことを口撃してくる人物に対して共感しようという気にはならないし、議論への興味はどんどん高まっていく。人間は自分が攻撃されていると感じると、気になってしまう生き物だ。こうして陰謀論者や過激論者の自己の意見への固執はますます強まっていく。

 近代の理性崇拝とは裏腹に、世界は論理だけで説明することはできない。結局は人間の感性の問題に行き着く。眼の前に見えている物体が実在するかもほんとうの意味で証明することはできない。レッサーパンダの魔神が人間に催眠術を掛けて物体を見せていると主張されても、それが間違いだと誰が証明できるだろうか?

 ましてや人生論などは論理で解き明かすことはできない。究極的には本人が幸福だと感じたらそれで良いということになる。太陽が明日西から登ったとしても、本人が幸福ならたぶん問題はないのだ。宗教にハマった知人がいたとしても、それ自体を批判することはできない。本人はそれで幸福かもしれない。論理とは限定的な場面でのみ作動する装置のようなもので、人類にとって世界を解き明かす万能のツールにはなりそうもない。最近は幸福度至上主義がメジャーになり始めているが、あながち間違いとも言えないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?