パリ・オリンピック開会式の国立図書館

パリが紹介した恋愛小説(?)・・・オリンピック開会式(1)
 
 「パリ・オリンピック2024」がついに始まった。昨日(7/27)の朝は2時半から・・・眠くなったら眠るつもりで・・・テレビのスイッチを入れ開会式に臨んだ。結局好奇心に駆られて全部見てしまったが・・・。心配していた雨も降っていない様子だったのでホッとしたのもつかの間、一時間もたたないうちに降り始めて、聖火が気球の籠に乗せられて空に浮くまで降り止むことはなかった。パリ市(イダルゴ市長)は歯噛みして悔しがったに違いない。それとも、想定内だったと強気を言うか。
 とはいえ、雨にも関わらず様々な出し物は滞りなく、予定通り運んだ(と思われる)。出せるものは全て出し切った感はある。そんな中で一番印象に残ったのは国立図書館のシーンだ。昨年パリに行った時、全面的な改装がなったばかりのその図書館に入り、見学してきたからなおさらだ。

この美しい閲覧室で、トリッキーな三人が飛び回りながら、無作為を装って本を手に取り、何気なくタイトルと著者名を見せていた。当然、それはなんらかのメッセージになっている筈だ。

 アルルカンのように(アルルカンはひし形だがハートマークのついた衣服を着ていた)ど派手な格好をした三人の男女(男二人Yuming Hey, Elan Ben Ali、女一人Léa Luce Busato)が閲覧室を縦横無尽に走り回りながら、時々本を手にし、表紙のタイトルがわかるように視聴者に向ける。そうして閲覧室を出た三人は、愛を確かめ合うかのようにそれぞれ抱擁し合う(男と女、男と男)。この場面のテーマは、ハートマークがやたらについた彼らの服装から「パリの愛」だとNHKの司会は言っていた。確かに、この三人の振る舞いは愛を表現しているに違いないが、問題は彼らが我々に見せてくれた本の題名だ。スピーディーなシーンの中で、やっと読み取れたのは『戯れに恋はすまじ』『ベラミ』『肉体の悪魔』『危険な関係』だった。

危険な関係
シンプルな情熱

 ふと疑問に思ったのは、「彼らは愛についての本を読んでいる」と報告しているアナウンサーはこの四つの作品の内容を知っていたのだろうかということだ。さらに言えば、そもそもフランス語のタイトルを瞬時に読み取り、作品名と作者名を読みとることができただろうか。まして、その小説の内容まで熟知していたか。ハートの絵の服を着た芸人たちを見て、「パリの愛」という説明を聞きながらテレビの前の日本の観客は、フランス文学の世界にどんな愛をイメージするだろうか。
 モーパッサンの傑作『ベラミ』は、そもそもこれを恋愛小説と呼べるかどうかが問題だ。主人公のベラミことデュロワは、新聞記者になろうとするが全くの能無しで記事一つ書くことができない。そこで自分の色男ぶりを利用して、新聞界で知り合う女性たちに恋を仕掛け、女性の力を借りてのしあがり、ついには若くて世間知らずの社長令嬢に駆け落ちをそそのかして結婚する。なんという嫌な奴だろう。また、『戯れに恋はすまじ』の主人公は操のかたい女性を自分になびかせるために別の純朴な娘に恋を仕掛ける。そうして、嫉妬を利用して彼女を手に入れようとする。『危険な関係』に至るや、ヴァルモン男爵は上流社会の育ちが良く信仰心厚い乙女を狙って恋を仕掛け、相手が恋に落ちると捨てるのを楽しむ恐ろしい男だ。しかもその顛末を女友達に逐一報告する(書簡体小説)。小説『肉体の悪魔』は今まであげた作品の中で最もインパクトの強い題名ではあるが、この小説が恋愛を扱っている作品という意味で最もまっとうかもしれない。十五歳の「僕」は年上の女性マルトに恋をする。彼女の夫は第一次大戦で戦線に出兵していたので、二人は誰にも邪魔されることがなく、愛し合っていた。そんな時、マルトは妊娠したことを「僕」に告げる。これを書いたラディゲ自身もまだ十六歳から十八歳だった(ラディゲは二十歳で死去)。筆者はこの小説を十九歳の時に読んだと思うが、ひどいショックを受けたことを記憶している。もっともフランスの現大統領はやはり高校生だった十六歳頃、担任の教師に恋をして最終的には妻としたのだから、この小説のレアリテ(réalité)はフランス社会ではまんざらでもないかもしれない。
 途中で眠ってもよいように、開会式を全部録画しておいた。そのおかげで、若者たちが図書館で表紙をわざわざ見せてくれた本の題名を確認することができた。以下、映像に登場した順に簡単に説明しておこう(翻訳本はなるべく最新版を選んだ)。

Paul Verlaine(1844-96)ヴェルレーヌ : Romances sans paroles『歌詞のない恋歌(無言の恋歌、言葉なき恋歌とも)』詩集、単独書としての訳書はなし。この詩集を出した時、ヴェルレーヌは妻を捨てて若き天才アルチュール・ランボーに夢中になり、生活をともにする(ホモセクシャル的な愛 ?)。

Annie Ernaux(1940-)アニー・エルノー(ノーベル賞作家) : Passion simple『シンプルな情熱』堀茂樹訳(早川書房) パリに住むある独身女性が、妻子ある外交官とのロマンチスムとは程遠い恋(というより性愛)を淡々と独白する。前者が後者の連絡をひたすら待つだけの一種の受け身(passion---受難の意味がある)の恋だ。とはいえ、彼女は男の心を掴むことに拘泥していない(シンプルな愛?)。

Alfred de Musset(1810-57)ミュッセ : On ne badine pas avec l'amour『戯れに恋はすまじ』進藤誠一訳(岩波文庫)

Guy de Maupassant(1850-93)モーパッサン : Bel-Ami『ベラミ』中村桂子訳(角川文庫)

Leïla Slimani(1981-)レイラ・スリマニ : Sexe et Mensonges邦訳なし『セックスと嘘』「La vie sexuelle au Marocモロッコの性生活」の副題を持つ。作家はモロッコとフランス国籍の女性作家だ。作品はモロッコの性事情を描くドキュメンタリーだから、「パリの愛」という範疇に入れるのは無理がある。が、それをあえて入れているところがおもしろい。彼女の小説『アデル 人食い鬼の庭で Dans le jardin de l’Ogre』松本百合子訳(集英社文庫)ではセックス依存症の女性を描く。今話題の現代作家。

Raymond Radiguet(1903-23)ラディゲ : Le Diable au corps『肉体の悪魔』中条省平訳(光文社古典新訳文庫)

Pierre Choderlos de Laclos(1741-1803)ショデルロ・ド・ラクロ : Les Liaisons dangeureuses『危険な関係』桑瀬章二郎・早川文敏訳(白水社)

Molière(1622-73)モリエール : Les Amants magnifiques :『豪勢な恋人たち』秋山伸子訳(モリエール全集第八卷所収)臨川書店 喜劇だから当然単純な純愛が描かれている。豪勢な恋人とは姫に言い寄る二人の王子のこと、その二人は姫がどちらを夫に選ぶか訊いて来いとある廷臣に命じる。その廷臣は心の底で姫を慕っていたのだが、それを隠して苦しい使命を果たそうとする。一方、姫の方も密かにその廷臣を好ましく思っていた(童話的恋愛 ?) ! 当然ひと騒動となる。

Chamblain de Marivau(1688-1763)マリヴォー : Le triomphe de l'amour『愛の勝利』(岩波文庫、『贋の侍女』とともに収録)佐藤実枝、井村順一訳 男装したヒロインが無邪気な娘を誘惑する喜劇。ここでは、タイトルを視聴者に見せることにあるのだろう。

 何十万冊も所蔵する書棚から選んだ九冊はいずれも傑作ではあるが、中には背徳的な作品があって、モリエールの喜劇以外、文部省推薦のような「愛」を描く作品はない(文部省推薦の「愛」がどんなものか、想像するしかないが・・・)。

 この図書館のシーンは、パリの歴史を紹介する一連のタブロー(場面)の一つ「Liberté自由」の中に組み込まれている。それは市民の武装蜂起の絵から始まり、革命中断頭台に送られる直前の牢屋となった「コンシエルジュリー」を映し出す。と同時に、両手で己れの首を持ち、窓に立つマリー=アントワネットらしき貴婦人が現れて、その首が叫ぶ。
Ah ! Ça ira, ça ira, ça ira //Les aristocrates à la lanterne !
Ah ! Ça ira, ça ira, ça ira /Les aristocrates on les pendra !
「おお、うまく行くだろう、うまく行くだろう、うまく行くだろう/貴族どもはぶらぶら提灯
おお、うまく行くだろう、うまく行くだろう、うまく行くだろう/貴族どもは吊るし首」

この全身像は、マリー=アントワネットが裁判中閉じ込められて
いたコンシエルジュリーの窓という窓に立っている。

 Ça ira とは革命中、民衆たちがデモ行進するときに歌い叫んだフレーズだ。それを合図に、ヘビメタルのロックバンド「Gojiraゴジラ」がAh ! ça ira, ça ira, ça iraをコンシエルジュリーの窓で歌うというより絶叫する。
 その場面は、開会式の場面で最も恐ろしい、多分最もおぞましいものだろう。首を持った貴婦人はコンシエルジュリーの窓という窓に現れると、その窓から血を連想させる真っ赤なテープが吹き出し、ついでそれは赤い煙に変わる。ゴジラのヘビメタの音楽「Ah ! ça ira, ça ira, ça ira」が流れている中、オペラ歌手がパリの紋章の船に乗って現れ、ビゼー作曲「カルメン」中のハバネラをヘビメタに負けじとばかり大音響で歌う。やがて音楽はハバネラだけになり、映し出される場面はポン・ヌフになる。図書館内部が映し出されるのはその次だ。
 「自由」を勝ち取るということはかくも激しい、かくも残酷な行為を伴うものなのか。開会式について日本人が書く感想コメントで一番違和感と反感を示すのがこのシーンだ。同じように血なまぐさい歴史を辿ってきても(そういう意味でどこの国でも似たり寄ったりだ)、「革命」を成し遂げた民と革命を経験していない民、王殺しをした国としなかった国との決定的な違いだろうか(イギリスは王殺しをしたにも関わらずしなかった国の範疇に入る、または入りたがっている)。つまり、フランスは拭い去ることのできない「王殺し」を自己の歴史の重大な転換点だったと認識していて、現代フランスを紹介するエピソードの中から排除することができないどころかそこから出発するべきと判断したのだろう(註)。それにしても思い切った演出だった。
 最初にあげた図書館の場面にも彼我の違いは歴然としている。「愛」は共通項としてどこにでもあるが、その象徴としてピックアップする芸術作品(ここでは文学)に違いが生ずる。このオリンピック開会式で紹介される文学作品から見れば、中世の昔にあらわれたアベラールとエロイーズのような愛は完全に神話と化して、取り上げる価値がないと判断されたのかもしれない。
 いろいろ考えさせられる開会式ではあった。録画をまだ消去する決心がつかない。詳細になんども見れば、開会式の仕掛け人の見えにくい意図がさらに見えるかもしれないからだ(可能なら、この開会式の場面をもう少し解析してみたい・・・この先いろいろ問題シーンがあるとネットで取り沙汰されている)。
 以下はGojiraゴジラ(本当は日本の映画『ゴジラGodzilla』からそのまま取りたかったが法的な問題で不可だったらしい)の「Ah ! ça ira, ça ira, ça ira」の歌詞は次の通りだ(この歌詞のほんの一部をがなり立てている)。彼らは何度か日本でコンサートを行なっている。またこの古い歌はエディット・ピアフも歌った(部分的に歌詞が違う)。 https://www.youtube.com/watch?v=bzu01gO3pi4(ピアフの歌う「Ça ira」)

Ah! ça ira, ça ira, ça ira !

Ah ! ça ira, ça ira, ça ira,
Le peuple en ce jour sans cesse répète,
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira,
Malgré les mutins tout réussira.
Nos ennemis confus en restent là
Et nous allons chanter alléluia !
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira,
Quand Boileau jadis du clergé parla
Comme un prophète il a prédit cela.
En chantant ma chansonnette
Avec plaisir on dira:
Ah ! ça ira, ça ira, ça ira!
(略)
Ah ! Ça ira, ça ira, ça ira
Les aristocrates à la lanterne !
Ah ! Ça ira, ça ira, ça ira
Les aristocrates on les pendra !

註 : (問題シーンについて問われて)マクロン仏大統領は、「フランスのありのままの姿を示した開会式を、フランス人は誇りに思っている」として、演出家のトマ・ジョリー氏や出演者らを擁護する姿勢を示している。(読売新聞オンライン8/5)



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