日々の日記 その1

人々もすなる日記といふものを、私もしてみむとてするなり。これは戯言でございますのであしからず。

大人たちは形而上学的年齢にあるのか、いやない。というテーマを曖昧な立場にある若者が書くのが正解なのかはわからないが、ひとまず以下の文章が私の意見である。
子供は考えるのが得意なのである。ここで考えるというのは論理だったものではない、もはや言葉ではない。イメージでも追いつかないなにかのことである。
例えば、私が小学生の時、漢字ドリルで新しい感じを書き写していると、その漢字が逃げて行ってしまうような感覚になった。森という漢字がそれ単体として成立していないように思えて、粘り強く上のほうから下のほうへ、左から右へ眺めているともう何もわからなくなってしまうことがあった。この状態が考えることである。
さて、これを曖昧な大人となった私は、位相不変な平面に起こった現象として軽くまとめ上げることができるだろうけれども、果たしてこれは正しいのか。物事を言葉でとらえるとき、それはもう現象を逸脱しているのではないだろうか。漢字をずっと眺めていただけではまとまりがないとして出口を締め上げるとき、眺めていたということはもうあらぬ空間に放り投げられてしまっているのではないか。(この文章がまさに無駄な言葉の羅列ではないかということに関しては、まさしくそうであるが、それでは解なしであるということになってしまうから勘弁願いたい)
このテーマはミランクンデラの「出会い」というエッセーを読んでいた際に思い付いたものである。私は、同じ若者よりは教養人だけれども本物のインテリには全然かなわないというどうしようもないコンプレックスを抱えてしまっている。ニューアカデミズム(というか中上健次)、戦後世代(安部公房、開高健はもう少し後かな)に当たる作家が好みなのだけれども、この人たちの知識量は目を見張るものがある。特に対談などで内容から即思考、構造、社会問題、文学的課題へとつながる流れは恐ろしく、今の私にできる芸当ではない。このように私は作家の形而上学的な、観念的なところにひどく憧れているのである。
そうだというのに、私はこれを否定している。けれども、キッチュな小説は好まない。そのくせ、ユーチューブなどのサービスは楽しんでしまっている。今インテリを目指そうとするみじめな若者にはこういうところがあるのではないかと思う。形而上学的年齢をぎりぎり満たしているのか、もしくは単に上界性がないだけなのか、わからないけれども、とにかく疑わしい自信を持ちながら過去を憧れ、今をあきらめてしまっている。私はそういう人間である。

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