日々の日記 3

私は決してパンタグリュエリストにはなれないだろうと思う。というのは、食事に興味がなさすぎるからである。

寿司を食べる、大量の肉を食べる楽しみはわかっているし、それらがうまいのもわかるのだけれど、スーパーの二百円くらいの冷凍パスタだって美味しいし、だったら安いほうを選んでしまう。ジュースなんて飲まず、水か安いコーヒーかだけを飲む。お金を貯めたいからではなく、食べ物をお金で評価できていないのだと思われる。

そんな私なのだけれど、たくさんの小説家の中でも特に開高健が好きなのである。開高といえば美食家として知られている。たくさんの酒を飲み、皆が言ううまいものから逸れたところに本当のうまいものを見つけた人である。あの人の書くとろみ、堕落、発散にはすごみがあって、読むたびにアットウされる。こりゃ、まいったナ、という具合に。

では、開高は若いころから舌が肥えていたかというと、そんなことはない。小説「青い月曜日」では開高の自伝的描写が多く出てくるのだけれど、戦後の荒れた日本で職を転々としながら生きながらえてきたことがわかる。未成年で酒を飲み、バイト先のパン屋で本を読み、ご老人に英語を教える。文学をバイブルとしながらも、世の波にのまれていた。開高もまた若者だったわけである。

私は、若者は貧乏であるべきだと思っている。あれが買いたい、これが食べたい、アレをしたいと思っても金がないのである。金がないからあきらめるし、憧れるし、挑戦する。そうでなければヒトは体を前に動かすことができない。時には金を貸し借りし、金を親にねだり、金のために暴力する。そういう汚さも若者の一面である。

そのうえで私は金持ちになってもうまいものを食って飲んで、楽しく暮らせる気がしない。そんなイメージが持てない。パンタグリュエリストにはなれない。絶望的である。


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