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平和憲法の真実(若者向け)1の前半

  1. 大日本帝国憲法[欽定]

  2. 日本国憲法

  3. GHQとの関連

皆さんもご存じの平和憲法についてです。

憲法自体は英語で「constitution=国体」と訳します。
後で重要な言葉になります。

若い人ぜひ

1.大日本帝国憲法とは何か。
これは、ドイツ(プロイセン)を参考にした大陸型憲法です。


徳川幕府の「地方分権」→明治政府の「中央集権」への移行時に、自治権を急に奪うと内乱が起こるので、「地方分権」を尊重しつつ、素早い意思決定から結果を得る為に選ばれました。今のアメリカ合衆国に近い憲法でした。

憲法は「議会制民主主の成立が目的」とされていますが、実際は既に参勤交代という形が存在し、既に江戸に住んでいた大名が半年毎に、幕府の会議と藩のパイプ役を制度化したのに近いです。
会社でいえば、半年は地方支店、半年は本社勤めですね。

東京勤めとなった大名は、爵位を得て上院議員(枢密院)、幕臣家臣が下院議員(衆議院)や軍属となりました。

刑法はドイツ、民法はフランス、(現在の)商法は英蘭を参考にしています。
ドイツが直後の普仏戦争で勝利した事も、伊藤博文に大きな影響を与えています。


大陸系=「官僚主義」「法治主義」
国同士が地続き、領土≠国境がハッキリしない国。
他国が陸路で来る。「官僚的」な半強制的な法適用。
公務員の裁量権の範囲が広く設定され、意外にもトップダウンの恣意的な運用。やり方は各官僚任せ。
ドイツ、フランス、中国、ロシア、ユーラシア大陸

英蘭(米)系=「契約主義」「法の支配」
海洋国家、領土=国境がハッキリしてる国。
他国が海から船で来る。「文書主義」的な半対等契約。
大航海時代に東インド会社が、ビジネス目的で契約書を持ってくるイメージです。
イギリス島、スコットランド島、オランダ、アメリカ、東南アジア、オーストラリア、日本、イタリア

意外と時代に合わせて作られ、現行憲法と大きな相違はありません。


元々、源氏鎌倉幕府、徳川幕府の時代から、コツコツと国民のコンプライアンスを高め、十七条憲法、御成敗式目、武家諸法度、禁中並公家諸法度と「人権」について条文化していました。(生類憐の令→決闘を減らせ、下克上するな、武士の立場で略奪をしたらクビ)

その「人権」を保証する為に、政府機構を縛る「統治」条文は、鎌倉時代には中国を参考として殆ど完成されており、今も尚、省庁制度から名称変更のみが殆どでした。(検非違使→警察)
よく東大生が源頼朝を評価する理由がこれです。

これに、明治時代に加えられた
欧米式の憲法それ自体は、各地大名がバラバラに処分してきた具体的な事案に対して、全国共通の「処分待遇」にしようという試みでした。
例えば喧嘩やいじめがあった際に、「青森では多く殴った方だけ刑務所」「鹿児島では殴られた方も刑務所」だと、同じ日本国民なのに差がありますよね。その国内の不平等を減らす目的でした。

江戸時代は、
長崎県ー南蛮貿易(スペインポルトガル、オランダ、スイス、フランスドイツ、イギリスアメリカ)
長崎以外近代法哲学がなく、文明格差がありました。

青森北海道ーアイヌ交易(ロシア)
新潟ー佐渡島交易(北朝鮮)
山口県ー朝鮮通信使(韓国)
鹿児島県ー琉球貿易(タイベトナムミャンマーフィリピンインドネシア)
上記は、(方言、言語的にも)共通化しづらい状況でした。

江戸時代の第一外国語はスペインオランダ語でした。
その後は、憲法事情から、意外にもドイツ語で、大正初期まで外国官すら英語を殆ど話せませんでした。
これは、江戸時代の西蘭の書物の一部が元はドイツの医学書ルーツだった事も関係しました。

そして、長崎の肥前鍋島グループは、英仏蘭と、徳川家は米国と仲良しだったので、伊藤博文ら長州グループはドイツと仲良くする事になりました。

実は、
①徳川家による開国=アメリカの為の港湾の増設と新規取引
②アメリカが独立=移民元の各国を服従させる戦争(英蘭戦争ーボストン茶会事件ー米英独立戦争、米西戦争)をしていた事
③長州5英傑がジャーディン・マセソン(グラバー)商会の援助を受けて留学。これら3つから国内勢力共通利益で第一次世界大戦の日英同盟となりました。

が、しかし彼らの没後、長州グループはドイツ型憲法のみとの繋がりが濃くなっていき、
これが後の第二次世界大戦での日独同盟にも繋がります。

これが大日本帝国憲法の始まりの部分です。

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