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ヤベェやつらから逃げ出したヤベェやつの話

【はじめに】
この話が誰かの助けになるかどうかわかりませんが、備忘録的なことも兼ねてまとめていきたいと思います。



6年前、私は実家から一度逃げ出しました。
上京し、慣れない土地での生活は決して順風満帆とは言えないものでしたが、自分を知っている人間がいないことが何より幸せで、ただただ心穏やかに日々を過ごしていました。

しばらくしてから新型コロナウイルスが蔓延し、その影響で仕事を失い、生活を維持していくことが段々と難しくなっていきました。もともと借りていた奨学金などの返済も期日に間に合わなくなり、毎日のように電話で謝り、とりあえずの支払い日を相談するというループに陥っていました。

いろんな仕事を掛け持ちして一日、また一日を食い繋ぎながら、応急処置的な生活から抜け出す方法を模索し、役所や社会福祉協議会に何度か足を運びました。
ざっくりですが、

・生活の基盤を立て直したい
・債務整理も視野に入れている
・実家には絶対に戻りたくない

こんな感じのことを相談しました。
役所の担当の方から社協、弁護士センター、法テラスへと、流れるように話が繋がれていきました。今まで生きてきて、自分のことをこんなにも誰かに話しただろうかと思うほど濃密に、たくさん話をし、たくさん書類を書き、本当にたくさんの方達に紡いでいただきました。
最後の相談の日、帰ろうとしていた私に、担当してくれていた方が紙袋を差し出してきました。中を覗くと、アルファ米、カンパン、羊羹、レトルトカレーなどが隙なくぎっしりと入っていました。大人になって初めて人前で泣いてしまい、一体そこまで迷惑野郎なんだと思いながら、この人達の為にも生きることを絶対に諦めへんでと、底が破れかけた大きな紙袋を両手で抱えて帰りました。

6月10日

その日は雨も降らず風も無く、やけに蒸し暑かったのを覚えています。
アルバイトを終えて端末を開くと、姉からメッセージが来ていました。内容は母の身体のことについてでした。
ここ暫く体調を崩していた母が病院に行って検査をするつもりだということは数日前に本人からも聞いていたのですが、具体的な日にちや検査内容までは私はまだ知りませんでした。

婦人科系のガンで、ステージ4。
すでにリンパ節まで転移しているとのことでした。


これは至極当たり前の話ですが、お金がないと生活は維持できません。家を借りているのなら、家賃が払えない以上は出ていくしかありません。帰る家が別にあって、そこで最低限の生活ができるのなら、そうするのが自然。考える時間も選ぶ権利も自分にはもうない。実家の人達は私に戻ってきて欲しいと思っている。
それが私自身のことを想ってのことでは無いにしても。であれば、選ぶべきは一つ。

そこまで頭ではわかっていても、どうしても戻りたくありませんでした。恥を晒しても他の誰かに責められても、あの人達のところへ戻るくらいなら死んだ方がマシだと、本気で思っていたのです。


私の両親は離婚しており、私たちきょうだいは母に引き取られました。新しい家が見つかるまでの間、私たちは母の実家に身を寄せて生活していたのですが、昔から母と母の親族は折り合いが悪かったこともあって、毎日のように台所やらそこかしこで言い合いをしていたのを憶えています。
その原因が母の性格や金銭感覚にもあると薄々気づいてはいたのですが、そういった母の振る舞いを抜きにしても、私は親族のことを素直に信じていませんでした。そしてそれは母に対しても同じでした。私があの家の人達と関係を断とうと決めて実際に逃げ出した理由も、他ならない「母」だったからです。


これもタイミングというやつなのか。いま自分はどうすればいいのか。
一番の理解者である姉に全てを押し付けて、私一人だけのうのうと東京で暮らしていいのか。
はたからみれば私だけ当たり前のように助けてもらって好き勝手に生きて、我儘を貫いているようなものじゃないか。地元に戻って、母の面倒をみたほうがいいんじゃないか。
実家に戻らず1人で暮らしている母と同じ家に住んで二人で似たもの同士、後ろ指をさされながら生きていくことが罪滅ぼしになるのではないか。その方がいろいろと楽ではないか。

そこまで考えても、やっとあの場所から這い出てきた過去の自分を思うと、そう易々と手放せるようなものではないということは確かでした。親不孝と言われても、なりふり構わず生きれるならそれでいいじゃないか。耳障りのいいことだけ言って無理に自分を納得させて何が残るのか。だって、いま戻ってしまえばもう一生逃げられない。
どのみち、私が債務整理をすれば実家の人間に伝わる可能性もある。何を言われても突っぱねて、自分1人で完結してしまえばいい。その時はそう思っていました。


人生終了のお知らせ


結果、母の病気のことと私の生活状況を伝え聞いた彼らが黙っているわけもありませんでした。
自分一人の生活すら危うい人間がどれだけ気持ちを伝えようとしても、それが誰の目からみてもただの我儘にしかみえないことはわかっていたのですが、それでも最後まで言葉で足掻いても泣き喚いても、事実は変えられませんでした。
約一ヶ月後、ほぼ連れ去られるような形で私は地元に戻ったのでした。


【つづきます】


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