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ヤベェやつらから逃げ出したヤベェやつの話⑧


誰に、何を、どこまで話すべきか。そればかり考えていました。


今日を生き延びることができても、明日どうなっているのだろうか。

彼らに見つかって力づくで連れ戻されるかもしれないし、慣れない状況に疲れ果てて自分から頭を下げにいくかもしれない。

誰かが私の味方でいると言ってくれても、どうなるかわからない。助けてあげると手を差し伸べてくれても、まず疑わなければならない。

ここは広いようで狭い。誰が誰と繋がっているかわからない。


孤独でした。


今にも沈んでしまいそうな小さな舟に乗って、暗い海の上にポツンと浮いているような、そんな感覚でした。

判断一つ誤れば瞬時にすべてが狂ってしまう中で、常に状況を整理し、その時の最善を選び続けることは、想像よりもずっと労力を伴うものでした。




不動産屋に向かって歩き始めてすぐ、ついさっき別れたばかりの妹からメッセージが来ました。彼女は誰からも何も聞いていないことは確かでしたが、朝に待ち合わせ場所で会った時、私の表情などから何かを察していたようでした。


『いろいろあって、もうあの家には戻らないことにした』
『きょうだいには絶対に迷惑がかからないようにする』


詳しいことは一切書かれていない、伝えたいことを極限まで削ぎ落とした簡素な言葉だけを送りました。


きっと怒るだろうな、とぼんやり思いました。
みんなはお前のためにいろいろやってくれたのに逃げるのかと。
きょうだいなのに何も言ってくれないなんて、あまりにも薄情だと。

ごめんよ、と心の中で頭を下げました。



『とりあえずわかった』


しばらくしてから返ってきたメッセージを見て、心が少しだけ軽くなったのを感じました。





交渉決裂

休憩がてら入ったファミリーレストランで親族から返ってきたメッセージを見た時、その四文字が頭に浮かびました。


借用書を作り直すから、家を出るのならそれにサインをしに来い。弁護士には隠して秘密裏に返せ。彼らの最終的な要求はそういうことのようでした。

そんな闇取引みたいなことを強要したら自分たちが法で裁かれ、一銭も戻ってこなくなるというリスクにすら気づかないのかと、悲しいような呆れのような、なんとも言えない気持ちになりました。

借用書を作り直すということは、保証人の名前などを細かく明記したものになるはず。私が泣いて暴れて嫌がっても、彼らはきっと私が判を押すまで絶対に家から出さないだろう。行ってしまえば何もかも終わりだと思いました。

彼らは私を殴ったり刺したりなんてことは一切しませんでしたが、だからこそタチが悪いのだと思いました。直接的な攻撃はしないけれど、言葉や態度で間接的に殴りつける。傷を受けた側が痛いと言えば、『我慢が足りない』『殴る方も痛いんだよ』『あなたのためを思って仕方なくやるんだ』などと言って、捻じ曲げる。

そして、無かったことにする。痛みも、事実も、感じたことも全て。

それはどうやら心理的虐待の加害者がよくやる行動の一つのようでした。彼らがそれを意識的にやっていたのかどうか定かではわかりませんが、メッセージでやり取りしていくうちに見えてきた本当の彼らを、″正気ではない″と感じていたのは確かでした。

早く出ていけと言うわりに引き留めたり、私の顔を見たくないはずなのに直接謝罪をしに来いと言う。
部屋に残っている荷物が邪魔だから早く出せと言いつつ、運び出しは自分たちが指定した日の制限時間内にしろと言う。
身の危険を感じたから離れたいと言っている相手に、新しい住所が書かれた住民票を持ってこいと言う。

いつもあれこれそれらしいことを言ってはいるけれど、やることがいつもズレている。そもそも最初から噛み合っていない。

こちらが木の幹の話をするために枝葉の話をすると、彼らは葉ばかり延々と追って話し続ける。いつまで経っても戻ってこれない。話にならない。


気を遣うところを間違えていたと、ようやく気づきました。


国や話す言葉が違っても、身振り手振りや表情で『嬉しい』『悲しい』くらいはなんとか伝わるというのに。

相手が『聞こう』と思ってくれればどれだけ拙い言葉でも伝わるものなのだと、入居契約書を眺めながら思いました。










その日の夜。
閉店した頃合いを見計らって、母の店を訪ねました。

いつもピカピカに磨き上げられ、大きさやデザインごとに纏めて並べられていたグラスは使いかけのクレヨンのようにでこぼこに置かれ、黒や茶色を基調としたモダンな雰囲気だったはずの店内はいつの間にか大衆居酒屋のようになっていました。

良く言えば、いつか東京で入った花屋のようにカラフル。そうでなければカオス。
いつもスーツや着物を着ていた彼女は、いつの間にか普段着にエプロンをしただけのラフな姿になっていました。

顔を見るなり『そこ座って』『なんか食べるっしょ?』『烏龍茶でいい?』と矢継ぎ早に言われ、接客なのかなんなのかよくわからない状態でとりあえず席に座りました。

お通しの残りだという山菜の煮物のような謎の美味いものを貪りながら、『誰かから何か聞いてる?』と聞きました。

彼女はなにも聞いていませんでした。私が地元に戻ってきてから親族の家に住んでいたことは把握していましたが、彼らと連絡を絶ってから数年が経っている上にお互いのことを良く思っていないのだから、娘が逃げたことなんてそりゃ聞くはずもないよな、と納得しました。

であれば、巻き込ませていただこう。


次から次へと出てくる謎の美味いものたちを平らげた後、『話がしたくて来た』と母に言いました。







(そろそろおわります)

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