「必要性」と「許容性」
こんにちは。めしだです。
今日、twitterで、こんなツイートをしました。
法的な物の見方・考え方
前回の投稿で、「法教育ってなに?」という問いについて、次のような定義をご紹介しました。
法教育とは、このように、法律専門家ではない一般の人々が、法や司法制度についての知識を身に付けるだけではなく、これらの基礎になっている価値(原理や原則)を理解したり、法的な「ものの考え方」を身につけたりするための教育です。
(日本弁護士連合会市民のための法教育委員会編著『中学校のための法教育11教材』)
今回は、ここでいう「法的なものの考え方」の具体的な中身をご紹介したいと思います。
私が、その中核をなすと考えるのが、「必要性」と「許容性」です。
前回の投稿では、法教育とは何かについて、サッカーのルールを例にとり、
ここで、「サッカーでは、背後からタックルすることは反則でありファウルですよ。」と教えるのは、「法律それ自体を教える」教育です。
しかし法教育では、そのようなルールを教えるだけではなく、
なぜ、背後からのタックルは反則になるのか?
そのようなルールは正当か?
を、子どもたちが自分で考えられるようにします。
ここでのポイントは、「子どもたちが自分で考えられるようにする」ことです。
私たち大人が、前記の問いに対する結論を、知識として伝えるのではありません。
子どもたちが、自分たちで考えて、議論して、結論にたどり着けるように手助けするのです。
そのために、前記の問いを通じて、思考の筋道を示し、どのように考えれば良いかを教えてあげます。
とご説明しました。
ここでいう「どのように考えればよいか」の方法論が、「必要性」と「許容性」の2つの視点で考える、ということなのです。
なぜ「必要性」と「許容性」?
およそ法(ルール)には、何らかの目的があります。
何か実現したい・守りたい利益があって、ルールは作られます。
他方で、ルールは、その対象となる人の行動を一定程度制約することを伴います。
前記のサッカーのルールを例にとれば、選手の安全という利益を守る目的で、「背後からのタックル」という行為を禁止し、ペナルティの対象としているのです。
つまり、法(ルール)には、
①一定の利益を実現したいという要請
②そのために一定の行為を制限するという働き
が存在するのです。
特に②が重要です。
本来、人は自由であり、これを制限するからには、理由が必要です。
人の自由を制約し、守らせようとするわけですから、それなりの正当性がなければなりません。その正当性が、ルールが持つ力の源なのです。
そして、その正当性とは、そのルールに「必要性」と「許容性」が認められる、ということなのです。
坊主頭の校則はアリ?ナシ?
「必要性」と「許容性」の2つの視点について具体的に考えるために、次のような、とある高校(男子校とします)の校則を考えてみましょう。
生徒の髪型は、坊主頭でなければならない。
法教育では、「校則では坊主頭以外禁止されていますから、みなさん坊主頭にしましょうね。」とは絶対に教えません(笑)。
「どうしてこんな校則があるのかな?なぜ守らないといけないのかな?」と生徒たちに問いかけます。
つまり、この校則に正当性はあるのか?を考えてもらうわけです。
さて、この校則は、生徒に坊主頭にすること以外を禁止しています。つまり、好きな髪型にする自由を制限しているのです。
自由を制限するわけですから、理由が必要です。何のために自由を制限するのか。それが「必要性」です。
ところで、生徒を坊主頭にする必要って、あるのでしょうか?
生徒を坊主頭にすることで守りたい利益って、何なのでしょうか?
「そんなものはない」(by関羽@横山光輝『三国志』)と言いたくなりますね。
本当に「そんなものはない」のであれば、この校則には「必要性」がないので、正当性がない、ということになります。
他方で、例えば「風紀を維持する」という利益を守るためであったとしましょう。
確かに学校は教育の場であり、ある程度の風紀を維持することは必要といえそうです。
では、風紀を維持するためには、本当に坊主頭でなければならないのでしょうか。
「坊主頭にする」以外の選択肢はないのでしょうか。
あるいは「坊主頭にする」ことは、本当に風紀の維持に役立つのでしょうか。
これが、「許容性」の視点です。
「必要性」があるからといって、どこまででも自由を制限して良いわけではありません。
本来人は自由である、というのが大原則なわけですから、自由の制限も、ルールの「必要性」に対応した程度のものでなければならないのです。
前記の例でいえば、たとえば、「風紀を維持したいのであれば、風紀を乱すような髪型だけ禁止すればよいのであり、坊主以外は全て禁止するのはやりすぎだ」とか、「髪型が坊主だからといって品行方正になるわけではないので、風紀の維持には役立たない」といったことが考えられます。
これらの観点からは、前記校則には「許容性」がない、ということになります。
坊主頭の校則の正当性は、このようにして考えるのです。
法教育の「究極」
法教育とは、思考の枠組みを教える教育です。
ルールの正当性について考え、どのようなルールが望ましいかを考える資質を養うことが、法教育の目的です。
そして、ルールの正当性は、「必要性」と「許容性」によって裏付けられています。
ですから、法(ルール)について、「必要性」と「許容性」の2つの視点から分析する視点を身につけてもらうことが、法教育の「究極」だと考えています。
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