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世界一周15〜19日目log アリススプリングス・ウルル

アリススプリングスはオーストラリアで一番治安が悪い場所だそうだ。

渡航前に私がかろうじて知っていた情報は「エアーズロックに行くならアリススプリングス発のバスツアーがおすすめ」ということのみ。
エアーズロックがメインで、アリススプリングスはついでであった。

それでも、今回のオーストラリア旅行で一番長く滞在する予定のアリススプリングス。
なぜ安全面のことを何も調べなかったかというと。

外務省の海外安全情報アプリで、オーストラリアに危険情報がなかったことが最大の理由だ。
外務省さんが危険がないというならば、という安直な気持ちであった。

ついでに、たびレジ登録もしており、何か重大なことがあれば通知してくれるはず、とも思っていた。自分から調べる必要性を感じなかったのだ。
一応、オーストラリアの銃規制については追加で調べておいたが、感覚的には日本と一緒という情報を見て安心していた。

しかし私は到着3日前にアリススプリングスで起きた暴動事件について、全く知らなかった。(出国後に知った)

https://voi.id/ja/news/369079


盗難車に乗っていた1人のティーンエイジャーが亡くなり、150人の若者たちが暴走、逮捕者5人に50銃を確保。
やけに5の倍数が並ぶが相当な規模だ。それに、50銃を確保!銃規制はどこにいった?

もう、衝撃だ。いくらなんでもこれはたびレジで通知してくれてもいいんじゃないだろうか。


今回はイースターの時期だから人気もまばらなのだと思っていたが、単純に暴動が起きたから観光客も少なかったようだ。
それに加えて若者たちの夜間外出禁止令が重なったと。

閑散としていたおかげか、私が滞在している間、そこまで治安の悪さを感じることはなかった。
けれどもネットで少し調べただけで、アリススプリングスについての凄まじい感想が出てくる。

人々が血だらけの殴り合いをしているだの、アルコール・薬物中毒の蔓延などなど。
これは逆に、暴動後で警戒されている時に訪れることができてよかったのだろうか。

道中、ワーキングホリデーでこの地域の家を探しているという日本人の若い女性に出会ったが、こんな地で生活しようとするなんて、なんてすごい度胸の持ち主。

その人の話によると、アリススプリングスはアボリジニの人々が最も多い土地なのだそうだ。

確かに、通りを歩くと建物や木の陰で休んでいる彼らをよく見かけた。
彼らは通りかかる時にじっとこちらを見てくる。
金の無心をされることもあったが、声をかけてくるだけ。何かをされることはなかった。

私はこの土地について何も知らなかった。
ハエの多さ、日差しの強さ、乾いたオレンジの土、ゴツゴツした岩肌、街を取り囲むような巨大な岩壁、これらを目の当たりにするたび、一つ一つ、新鮮に驚いた。

ANZAC Hillの夕陽(アリススプリングス)


ラクダツアーに参加して、その景色の美しさを堪能させてもらったが、今回のオーストラリア旅行の一番の楽しみはやはりエアーズロックだった。


地球のへそとも言われるエアーズロック。私はそこを目指してオーストラリアへやってきた。

最初に見たのは小学生の頃だったと思う。
当時の担任の先生が夏休みの思い出として写真を見せてくれたのだ。赤い夕陽に輝く壮大なエアーズロック。
巨人のように見えていた先生は岩の前では豆粒のように小さく、その光景に憧れを抱いた。

いつか自分も見てみたい。
小さな瞳を輝かせていたが、人一倍人見知りで臆病な自分には無理だろうな、とも子ども心に思っていた。

安心してくれ、過去の私。君は今一人でどこへでも行ける大人になった。


エアーズロック



エアーズロックへは日帰りツアーを予約した。
ツアーまではアリススプリングスに滞在することにして。

エアーズロックリゾートに滞在する手もあったが、宿泊費が高すぎたのでやめておいた。2〜3日キャンプしてキングスキャニオンなどを巡るお手頃なツアーもあったが、これまた場所が高すぎる(私は高所恐怖症だ)のでやめておいた。


ともかく、予約したツアーはエアーズロックをアボリジニの伝説含めてじっくり観光した後、カルチャーセンターに行って学び、夕陽に照らされる真っ赤なエアーズロックを見ながらBBQをするという贅沢なものだった。

アリススプリングスからウルル(エアーズロック周辺の土地)へは片道5時間だったが、ひと時も車窓から目を離せなかった。

ウルルへ向かうに連れて、オレンジ色の土は徐々に色を濃くしていく。
ウサギにも見える物珍しい白い植物の群生、豊かな森林、そして広大な地平線。青い空とのコントラスト。


遠くに見えるエアーズロック


隈なく見ていたはずなのに、ふと気づくといつの間にか巨大な岩石が現れている。

長い年月をかけて風雨が山を削った結果だというが、それは神秘的な光景だった。

美しさについては語り尽くされてきただろうから、ここではあまり語るまい。

先程、神秘的な光景だったと書いたが、実際、エアーズロックはアボリジニの人々の聖地だった。

特に神聖な場所では「撮影禁止」と書かれた看板が各所に立っている。
ガイドも口を酸っぱくして神聖な場所であることを伝えていた。

しかし、一昔前は登れていたという。
先生に見せてもらった写真でも確かに岩に登っていた気がする。

鎖の擦れた痕が、エアーズロックの岩肌に残されていた。

右側に見える白い線が鎖の跡


現在、エアーズロックは99年間の貸与の最中である。
聖地を貸与とは奇妙な響きだ。

オーストラリアへやってきた移民は、この地で何をしてきたのだろうか。こちらのサイトにまとめられていたので引用する。

入植者たちは、狩猟採集民として移動しながら生活していたアボリジニを、『非定住者』と見做し、オーストラリア大陸は、テラ・ヌリウス(teera nullius)、即ち『持ち主のいない土地』であると主張した。自分たちの土地占拠を合法化する一方、アボリジニを不法占拠者として迫害、虐殺していった。こうして東南部では1840年代に、タスマニアでは1876年に純血のアボリジニが絶滅し、オーストラリ全土に約30万人いたとされる人口は、1901年の統計では66950人にまで激減したと言われている。
 さらに、アボリジニの子供たちを寄宿舎に収容したり、親から引き離して白人家庭の養子にしたりする『同化政策』がとられた。この政策は、19世紀末から1960年代まで続き、延べ10万人といわれるアボリジニが、民族的アイデンティティを失い、いわゆる『ストールン・ジェネレーション(盗まれた世代)』として、都市部に暮らす最下層民となったのである。

『ウルルアートギャラリー』http://uluru-art.com/?mode=f1 (2024年4月10日閲覧)



アボリジニの人々を「狩って」いたともいう。手記がいくつか残っているそうだ。
その他にも、大陸からやってきた移民たちが持ち込んだ伝染病が流行り、大勢の人が亡くなった。

しかしアリススプリングスを含む中央砂漠地帯の環境は厳しく、移住が遅れたため、アボリジニの人々が多く残ることができたという。

30万人が6万人とは、信じられない数字だ。
土地を奪い、虐殺・蹂躙し、子どもを取り上げ……。

調べながら、言葉が出なかった。

2008年に当時の首相が謝罪し、現在では権利を認める政策も進められつつあるというが、
どうして今日の彼らが平穏に生きていけるだろう。

自分たちが代々住んできた土地を突然現れた移民に奪われ、家族とも引き離されて。

現在のオーストラリアの土地は乱れている、とカルチャーセンターに書いてあった。
野生動物たちは数を減らし、生態系は乱れ、自然は減少していると。
史上最悪と言われた大規模な森林火災も記憶に新しい。

民族共存と、軽々しくいうことは出来ないだろう。
過去の人々の誤ちだと、言い切るには傷が深すぎると思う。

どうしようもない怒りと、悲しみを。
全てを風化させれば、後の人々は生きやすくなるのだろう。しかし過去の人々の苦しみは、どこへいくのだろう。

私は原爆を落とされた土地の出身だ。親族に原爆で亡くなった人もいる。
これは私のテーマでもある。

苦しみの原因はわかっている。執着だ。理不尽な死を、出来事を、赦せないと強く思ってしまう。

原爆の後遺症で、長年にわたり苦しみながら、死んでいった人々。豊かだった土地は汚染され、人々の生活は無惨に壊された。

日本に罪がないとは言わない。日本軍の戦争犯罪の数々を見ると、日本が被害者とはとても言い切れない。わかっている。しかし、だからと言って、市政の人々があんなにむごく死ぬ必要はあったのだろうか。
被爆した身体は溶けて行き、焼け爛れ、乾きに苦しみ、内部から壊れていった。一瞬で、全ての人が。

時間が全てを癒すというが、残された記録たちはまだ私に鮮明な傷を与える。

現代を生きる私には関係のないこと、そう切り離してしまえば楽だろう。
多分そうすることだってできるけれど、あの土地に生まれた意味と責任を、最近よく考える。

アイデンティティとは難しいものだ。

ウルルにはアボリジニアートの店がたくさんあった。
先程歴史を引用させてもらったサイトもまた、アボリジニアートを紹介するHPだ。

店に入った瞬間、壁にかけられた大きな絵に目を惹かれた。壁一面に色とりどりに、幾何学的な模様で大きく飾られたそれらは国旗のようだった。
店内を見ると、まるで服のように、さまざまなキャンバスがハンガーに掛けて並べられていた。

統一されているようで、どれも違うさまざまなアート。個をはっきりと感じさせる。

生きている、と思った。彼らはここに生きている。
彼らのアートが残る限り、彼らは生き続けるのだ。
苦しみも、無念さも。
私たちの思惑とは関係なしに。
彼らの痕跡が残る限り、彼らは生き続ける。

自分にできることはまだわからないけれど、残し続けよう。
生活が変わっても、生き方が変わっても。
彼らの生きた証を残し続けることが、現代を生きる私たちの責務だ。

奥に見えるのがアマデウス湖(塩湖)
ラクダツアーで見た光景
エミューたち

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