プラトン/渡辺邦夫訳『メノン 徳について』(光文社古典新訳文庫、2012年)を読んで。

 プラトン対話篇の中でまず最初に読んだら良いのは迷わず『ソクラテスの弁明』である。しかし、「プラトンとの対話」を、あるいは「プラトンの対話」を味わいたい読者に勧めたいのはメノン、それも渡辺邦夫訳のメノンである。本書は他書には見られない、プラトンに初めて出会う読者にとってあらゆる障壁を取り除く工夫がなされ、生き生きとした対話の様子を再現していることから、まず勧めたいと思う本なのである。
 メノンは奴隷の少年が幾何学を習っていないにもかかわらず平方根を用いて問題を解くに至る様子を克明に記録した対話篇である。これは対話を通して少年が自らの内に宿している真理を見出していく様子を描き、真理が一人ひとりの人それぞれに内在していることを問いかけるのだが、この対話篇で有名な想起説が提示されるのである。メノンとソクラテスの対話の内に次々と問いかけられる、徳とは何か、知るとはどういうことか、知識とは何かと、その問いが深まっていく中で、プラトンが問いかけようとする徳の姿が明らかになっていくのである。
 本書をまず勧めたいと思うことの一つに訳語の選択がある。従来「臆見」あるいは「思いなし」と訳されてきたドクサという言葉がある。本書の翻訳では「意見」といったニュアンスを含んだ「考え」という訳語が選ばれており、その理由が詳しく訳注で述べられ、かつ本文と等しい分量の充実した解説によって議論の全体の中でその訳語を選ぶ理由が知らされるのである。そしてその道行を通して読者は現在のプラトン研究の最前線へとも招かれる何とも贅沢な本なのである。
 評者にとって印象的であったのはソクラテスの命題としても有名な「徳は知である」という言葉の「知」がフロネーシスであったことである。メノンという対話篇がゆたかなプラトン認識論の源泉である中、この「知」という言葉がフロネーシスであったことに非常に驚いた。たとえプラトンがこの対話篇で体系的な思考を目指していないとしてもアリストテレスが実践知として取り上げるそれとの結びつきを気づかせてくれる翻訳なのである。
 古典は様々に翻訳される。一つの訳語を選べば従来の訳語と齟齬をきたすといったことは散見されることであり、アリストテレス研究に至っては日本語でも英語でも二つの言葉を巡って訳語が反転することすらある。しかしそういった中での読み解きを通して、古典の伝えようとするメッセージを読み解くこともまた哲学的営みに結び付いている。本書は古典を読むということの、古典を翻訳することの難しさと面白さを共に感じさせ、プラトンがメノンの中で読者に提示する対話そのものを生き生きと再現しているのである。繰り返し手に取りたくなる一冊である。

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