『すべてのいのちを守るために 教皇フランシスコ訪日講話集』(亜紀書房、2020年)を読んで。

 2019年11月は特別な時であった。自分の生活の上で傍目に見える大きな変化はなかったであろう。しかし、教皇が来日されたこの時は自分の人生にとって大きなものを残したのだと今でも思う。ローマ教皇が日本を訪れるのはヨハネ・パウロ二世以来、二度目である。ただその間に教会も世界も大きく変わり、前回訪れた時の熱狂ぶりとは異なったことであろう。ヨハネ・パウロ二世の来日の熱狂に比して静かに訪れたその時は、ちょうどコロナの緊急事態宣言が出される前、世の中が息苦しくなるのを肌で感じていた時だった。しかし身近なところでは教会の人々はその来訪に胸を高鳴らせていた。
 本書は教皇フランシスコが来日された時に訪れた先々で語られた講話を纏めたものであり、巻末に若松英輔氏による解説が付されている。本書に採録された文章はすべて中央協議会のウェブサイトで現在でも見ることができる。若松氏の解説でも印象的に書かれているように、教皇フランシスコは祈りの人である。それは訪れる先々の具体的な他者のことを想い、彼らの苦しみや痛みを掬い上げるようにして人々の心に届く言葉を発する人なのである。要人の準備された原稿のようにではなく、私たち一人ひとりに語りかける言葉を読者は見出すであろう。少なくとも私にとって本書に記された教皇の言葉との出会いは何かにぶつかった経験のように思われる。
 教皇は訪れた先々でその地にふさわしい祈りを準備されていた。大きな広場での公に開かれた御ミサに伴う講話から若者の代表との対話集会まで、広く様々な人に語りかけた。しかしその姿は発することよりも聴くことに重きを置いていたことがその言葉からひしひしと伝わってくる。教皇は私たち一人ひとりのことを想い、その苦しみや痛みを受け留め、イエスとともに祈られるのである。訪日講話集の一つ一つの言葉はかけがえのない、その時にしか発されない言葉であった。教皇の一つ一つの言葉は今なお私たちの教会を見つめ直す言葉を蔵しており、交わりの内に喜びを見出すイエスの姿を私たちは日々見出さなければならないのである。それが教会が必要とする聖性であることを今なお強く訴える本なのである。
 教皇フランシスコが選出されたとき、貧しき人の声を聴く使命からフランシスコと名が浮かんだという。しかしイエズス会の草創期に日本に訪れたもう一人のフランシスコ、フランシスコ・ザビエルのことを忘れたことはおそらくなかったであろう。ロヨラのイグナチオが来ることを夢見た国に、二人のフランシスコへの想いを胸に来られた教皇は紛れもない祈りの人であった。

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