イマヌエル・カント/大橋容一郎訳『道徳形而上学の基礎づけ』(岩波文庫、2024年)を読んで。

 本書は熟読を勧めたい最初に読むべきカントの著作である。カントといえば三批判、特に翻訳も多い『純粋理性批判』に手を伸ばす人も多いであろう。しかしどの翻訳が良いのかは読者の置かれた状況に応じて変わってくる。その良し悪しを見極めるにはカントその人の文章に慣れる必要がある。三批判に取り組む前に読むものとしてぜひとも勧めたいのが本書なのである。
 カントは感性界(現象界)と叡智界(知性界)とを峻別した。わたしたちがどのような世界(感性界)に生きていて、どのようにその世界を捉えるべきかを明らかにするのが『純粋理性批判』であり、そしてその世界の内でわたしたちにはどのような自由が与えられているのか(叡智界)を明らかにするのが『実践理性批判』であり、そこから理性的存在者相互の共通した判断を追求するのが『判断力批判』であると言えよう。カントの哲学は基本的に理性的存在者であればどのように物事を捉え、生きるべきかを巡るものである。一見近寄りがたいものを感じる読者もいるかも知れないが、論じていることの見通しが立てば、とんでもない要求がされている訳ではなく、寧ろ人権思想の礎を築くその人の論の組み立てに納得するところもあるのではないだろうか。(三批判の相互関係については中山元『自由の哲学者 カント』が簡潔に全体像を提示してくれる。)
 『道徳形而上学の基礎づけ』は『純粋理性批判』を世に出し、その第二版と『実践理性批判』を準備している頃に書かれたものである。カント自身の著作で入門的とみなされているものにはプロレゴメナもあるのだが、本書『道徳形而上学の基礎づけ』の方がカントの批判哲学の全体像を理解するための要(かなめ)となる著作であることから最初に読むのにふさわしいように思われる。さらに本書においてはカントの人格論に直接触れることができ、読者も関心を抱きやすいことと思われる。その論述において「定言命法」や「尊厳」だけでなく、「感性界(フェノメノン)/叡智界(ヌーメノン)」が触れられ、批判哲学全体の素描が与えられるのである。
 本書には「純粋実践理性批判」という言葉が出てくる。これは単に「実践理性批判」のことではなく、その基礎づけを企図した言葉なのである。ことの消息は訳者注によって簡潔にして奥行きのある注記に窺うことができよう。カントが前提としていたことや、意図していたであろうこと、それからカント研究において解釈が分かれる部分の解説が記された注はカントの叙述に躓きそうな読者を支えてくれることであろう。しかし特筆すべきは何よりも精読に値する本文にある。日本語で正確に事柄を一つ一つ抑えていく訳文を通して、読者はカント自身の言葉によって批判哲学の核心へと案内されるのである。

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