大貫隆『隙間だらけの聖書』(教文館、1993年)を読んで。

 どんな書物も時が経てば隙間が生じる。それは今書かれた書物でさえ、書き手の手を離れればそうなるのである。同時代の著者であれば、読み手の反応に応じてそれに答える本を書くことである程度はその隙間を埋めることもできよう。しかし聖書となるとそうはいかない。古典と呼ばれる書物が抱える時代的制約に増して、それぞれの文章が書かれた状況が重層的である新約聖書はなおさらである。わたしたちがいま手にして読むことのできる聖書は幾重もの人々の手を介して伝わってきたものである。本書はその隙間を一人ひとりの読者が埋める手がかりを与えてくれる本である。
 本書は、あまりにも時代のかけ離れた聖書と私たちの時代の間に横たわる隙間を埋める試みである。となるとしかし著者の解釈を読ませられるのかといえばそうではない。まず私たちと聖書を隔てる隙間が何であるかを著者は明らかにしていくのである。本書はある目的をもって書き下ろされた本ではないためそれ自体が隙間だらけである。したがって、たとえ大学のチャペルで学生に向けて語られたものだとしても、その内容は時に入門を遥かに超えている。しかし聞き手を目の前にして語られた一つ一つの問いかけは優れて聖書を読む際の根本問題を明かすものであり、隙間を自覚させてくれるものである。
 わたしたちは言葉の配慮を通して進歩していくものだと思いがちである。しかしさまざまな言い換えによってともすればそこに横たわる差別や偏見を助長することもあるのではないだろうか。社会の中に厳然と存在する格差への配慮から「貧しいもの・富めるもの」を「すべてのひと」に書き換えたり、言葉への配慮から「父なる神」という表現を排除することの目指しているものは一体何なのであろうか。本書はともすればそういった性急な「配慮」がテクストの持つ豊かさを覆い隠してしまうのではないかということに気づかせてくれる本なのである。本書には他にもヨハネの「時」を巡る省察やパウロの家族論が採録されている。前者は私たちとヨハネの間に横たわる時間の隙間を埋めるものであり、後者はパウロが関わっていた共同体と私達の今の教会との隙間を埋めるものである。
 個々に語られた一つ一つの著者の言葉は、私たちが聖書を読む際に見落としてしまう手がかりを拾い上げ、読者の一人ひとりが自ら隙間を埋めるようにして聖書と向き合うことを求めているのである。新約聖書に興味のある読者に広く勧めたい一冊である。


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