見出し画像

【短編小説】ある春の日の恐怖体験

あれは、今から年ほど三十年ほど前の春の日の出来事だった。

 俺の名前は加藤 浩史ひろし。愛知県の高校を卒業し、住み慣れた町を離れ、地方の大学へと進学した。都会の喧騒けんそうに慣れた俺は、田舎へ引っ越すということに、当初は不安でいっぱいだった。

 しかし、大学生活が始まり、独り暮らしにも慣れていくに従い、待っていたのはサークル活動にバイト。合コン、飲み会、朝までカラオケの日々。そのループに陥って、大学では適当に出席して単位を取っておけば良かった。気づけば、四年間がアッという間に過ぎ去っていた。

 大学3年の後期から先輩の伝手つてを頼った就職活動を展開したのである。まあ、お蔭で早々に就職先が決まった。まだ、バブルが弾けて、数年後の事だったから、そこまで就職難ではなかったのかもしれない。そんな社会人になったばかりのゴールデンウィークの連休中にそれは起こった。

 五月の澄みきった青空に、穏やかな春の陽が昇って、少しだけ汗ばむ陽気となっている。暖かい柔らかな風が、新緑の芽生えた木々の葉を揺らして、若葉の香りを辺りに漂わせていた。

 俺は名古屋地下鉄 鶴舞線の3000形と呼ばれる銀色電車の中にいた。ローズベージュの床にクリーム色の内装、シートは紺色基調で、エアコンの効きは良かった。ただ、地下鉄特有の鉄分と油脂の混ざったような香りが俺の鼻孔にこびり付いてくるのが玉に傷だった。

 それにしても、この混雑は、どうにかならないものだろうか。ギュウギュウに詰め込まれた車内は、まさに整頓せいとんされていない寿司詰め状態だった。俺は、先頭車両の一番前の入り口付近を陣取ると、ステンレス製のパイプを握り締め、立ったまま揺られていた。

 ゆっくりと滑り出す地下鉄。俺の黒いGの付く腕時計は、九時五十分を指している。俺は薄型になったウォークマンをシャツの胸ポケットに収め、黒いイヤホンから流れ出る音楽に耳を傾けた。女性ボーカルの甘い声のバラードに懐かしい哀愁あいしゅうを感じながら、目の前の前面展望に視線を投げる。

 時折、地下鉄のモーター音、レールを車輪がこする音が聞こえている。ふと、ガラスに映る自分の姿に視点を合わせてみた。何処か、疲れたような俺の顔を映し出している。

 滑走する電車に慣性が掛かり、俺の身体が傾く。運転手がブレーキを踏んだ証拠だ。電車は速度を緩める。

「そろそろ到着だな」

 俺は懐かしい感慨かんがいが込み上げて来て、思わず笑みがいてくる。と、ノイズ交じりのこもったような女性の声が古めかしい車内スピーカー通して流れ始める。

『まもなく、上前津かみまえづ。上前・・です。お出口は右側です。鶴舞線はお乗り換えです・・』

 何百、何千回と掛けられて擦り切れたテープ音声は旧式の車内スピーカーに乗り、地下鉄特有のこもったような風切り音の中で聞き取りにくさがあった。

 やがて、前方に明るい光が見える。電車は車輪とレールの軋み音を立てながら、上前津駅のホームへと滑り込んだ。

 扉が開き、名古屋の大須商店街を目指して、多くの乗客が一斉に降りる。俺も、その波の中へと潜り込み、改札を目指した。黙々と足早に歩く人波は、縦横無人じゅうおうむじんにバラバラな波紋はもんを描きながら消えていく。

 俺が目指すのは九番出口の階段だ。俺はタイル張りの床を足早に進み、九番出口の階段へ到達した。久しぶりに大須観音に来ると胸がおどる。俺は、長い階段を登り、遂に地上へと帰還きかんした。

 見慣れた橙色の看板が目印の牛丼屋があり、甘辛い香りが辺りに漂っている。その右横に茶色のマンションが建っており、その一階に古本屋があった。いつもなら、この古本屋で本を物色するのが日課なのだが、今日は待ち合わせ時間が無い。俺の黒いGが付いた腕時計の針が十時を廻っているのだ。

と、不意に俺は道路を挟んで向かいの出口を見た。

「おーいっ!」

 と、手を振りながら、叫ぶ男が一人いる。背丈は俺と同じ170ぐらいのやせ形。”NEKO GA SUKI”と書かれた何処で買ったのか意味不明なデザインの白シャツを着ている。その上に皺くちゃになった黒いジャケットを着て、ヨレヨレになった紺色のジーパンに薄汚れた白いスニーカーを履いていた。

 それにも増して、肩まで伸ばしたサラサラヘアーがトレードマークの黒縁眼鏡の男がそこに立っているではないか。おそらく、推定22歳だろう・・・と、言うか俺の友人の高松 敏樹としきである。俺も思わず笑みを浮かべて、

「よう、高松。久しぶりだな」

と、横断歩道を渡りながら手を振り返した。

「おおっ、加藤。久しぶりだな。去年のゴールデンウィークに会ったきりだから、ちょうど、一年ぶりぐらいか?元気だったか?」

「ああ、まあな。相変らずだよ。入社したばかりで仕事は忙しけどな。そっちはどうよ?」

「俺もだよ。毎日、残業、残業でイラストばっか描いているよ」

「そう言えば、高松はゲーム会社に就職したんだったな。自分の好きな事が出来て、羨ましいなあ」

「いや、そうでもないよ。仕事だと、自分の好きなのばかり、描くわけにはいかないからな」

と、高松が眉毛を曲げて言った。

「ふーん。じゃあ、最近、アレ系な美少女キャラとかは、描かなくなったのか?」

「いや・・・。まあ、アッチ系のキャラは同人誌でのお楽しみってやつさ」

 高松は何処で覚えたのか、右手でピースサインを作り、頬にくっつけ、白い歯を見せるという古典的ぶりっ子女性アイドルのマネをした。陽気で暖かな春なのに、俺の中に冷たい隙間風が吹き抜けていった。俺は両肩を震わせ

「ああ、なるほど・・。まだ、高松は漫画を描いているんだな」

「ああ、一応、俺のライフワークってやつだからな。はははっ・・」

「でもさ、高校の頃は、硬派な漫画一筋だっただろう?それが、今は美少女キャラ物ばっかだもんなぁ」

 と、俺が呆れたように言うと、高松は

「それを言うなよ・・・。高校の頃は部活の手前大ぴらに出来なかったんだよ。これからは売れるキャラを描かなきゃ、同人誌が売れないからな」

 と、またもや古典的ぶりっ子女性アイドルのマネをする。俺は、今日、何度、同じものを見せられるのだろうか。俺は恐怖した。

 そう言われば、思い出したことがある。高松は高校生の頃から絵が上手く、当時からちょこちょこ同人誌を描いていた。部活も漫画研究会で、高松は硬派なおとこばかりが出てくる漫画を描いており、それ以外は認めない堅物な奴だと思っていた。

 何故なら、露出度の高い美少女キャラが出てくる漫画やアニメの話しをしたり、見せようものなら、高松の拒絶反応は激しいものだったからだ。
 
 ところが、高校卒業後、高松が美少女漫画に目覚めてしまった。無論、アダルティな部類の漫画だ。高松に聞くと、どうやら、硬派な漢ばかりが出てくる同人誌が全く売れなかった事が起因しているらしい。

 俺も高校時代に何度か、高松に連れられて、コミックマーケット(通称コミケ)に行った事があるが、通常のアニメキャラやゲームキャラの二次使用アダルティ物とヤオイ物(ヤマ無し、オチ無し、意味無しの三拍子揃った俗にいうモーホ系漫画)が九十パーセント以上を占めていた。

 それだけが理由で自分の信念を百八十度変換できるものなのかと考えるが、コミケで資料と称して同人誌を大量買いしていた高松の行動を見ていると、元から、アダルティ系なのだろうと想像できたものだ。俺は両肩に寒さを覚えながら

「なるほどな。それで、最近の新しい作品って言うのは描けたのか?」

「ああ、今、描いているやつは、巨大戦闘ロボットがセーラー服をまとって悪と戦うヒーローものだよ。まあ、少々エロチックな部分はあるけどな。はははっ・・」

 俺の脳裏に巨大なロボットがセーラー服を着る姿が投影とうえいされる。超合金の冷徹なロボットに卑猥ひわいで、軟弱なんじゃく極まりないセーラー服を着せ、そして、エロチック・・。高松のその発想に俺は、ひきつけを起こしそうになった。俺は笑ってごまかしながら

「はははっ・・。それは面白そうだなぁ。はははっ・・」

「そうだろう?そういう独自性が大事なんだよ。まあ、コミケで売れるといいんだがな・・」

高松は俺の肩をポンポン叩きながら笑う。と、高松が突然真顔になると

「あっ!そう言えばっ!」

と、何かを思い出したのか叫んだ。

「えっ!なんだ?どうした?」

「今朝、思いっきり、犬のウ○コを踏んじゃったよ」

「はあぁっ?!何だっ、その不幸な報告!」

 俺は呆れた。

「いやー、朝から運が悪いなあって思ってさぁ。まあ、途中の縁石で拭いてきたけどな」

 高松は靴の裏を地面に擦りつける。高松の犬のウ〇コで汚れた靴を縁石で拭く姿を想像だけで、俺は縁石に同情を禁じ得なかった。俺がその寒さと戦っていると、高松は話題を変える。

「さて、十時も過ぎて、店も開いた事だし、見て回ろうぜっ」

「ああ、いいね。俺は、まず、あのソフトを見たいんだよなぁ。確か、あっちの方に・・」

 俺たちは背中に黒いナップサックを背負い、大須商店街のアーケードの中を並んで歩いていく。おそらく、他人から見ると、ただのオタクに見えるだろう。この界隈では珍しくない光景だから、俺たちも堂々としている。万松寺付近を歩くと、お香の香りが充満して大須商店街に来たと実感するのだ。

 俺たちは一軒、二軒・・・とパソコンショップをハシゴする。当時はパソコンショップもパソコン本体よりソフトを販売している店の方が多かった。むしろ、今どきのフィギュアやコスプレグッズを販売するなんて店は皆無に等しかったのだが、時代は変わるものだ。

 と、いつものコースを辿りながら歩いていると、ふと狭い路地に座っている奇抜な服装の集団が目に飛び込んできた。それは、美少女系戦隊ものの走り漫画から飛び出たような恰好をしていた。俗にいうコスプレ集団だ。

 俺たちは驚愕した。こんな名古屋に、しかも大須商店街のアーケード内にコスプレ集団がいるなんて。東京の秋葉原や大阪の日本橋ならテレビで見た事があるが、当時の名古屋では見かけた事がなかったからだ。

「お、おいっ!み、見ろよ、加藤。あれはセーラーP-のコスプレだな」

「えっ!なんだ、P-って?」

俺が真顔で尋ねると、高松は眉間に皺を寄せ

「何、違う所に食いついているんだよ!あんまり大声で言えないだろう?」

「えっ?なんで?」

「この辺には、セーラーP-のコアなファンが多いんだよ。俺が同人誌を書いているのとかが、バレるのはマズいんだよ。昔、好きなキャラクターを汚されたとかで吊るし上げにあった同人作家がいたぐらいだからな」

と、高松は首を絞められるマネをした。俺は頷き

「そうなんだ。それは、それは怖いな」

「そうだろう?ただ、ちょっと、気になるなあ」

「何が?」

「あのコスプレ集団だよ」

「えっ?」

 俺は何か嫌な気配を感じた。しかし、高松は

「なあ、加藤。あのコスプレ集団を近くで見てみようぜ」

 と言い出した。俺は咄嗟とっさ

「いやいや、高松、ちょっと待て!」

と高松を遮り

「なんか変だぞ!止めとこう!」

と、止めようとしたのだが、高松は、自分の好奇心を押さえられないのか、エロが抑えられないのか、俺の静止を無視して接近しようとしているではないか。

 俺は、不意に昔の嫌な思い出が蘇る。咄嗟に高松の袖を引っ張った。

「おいっ!待てってっ!なんかヤバい気がするぞ!」

「何言ってんだよ、加藤。ただのコスプレ集団だよ。しかも女だぜ!」

高松がスケベそうな面をしながら、口元から笑みがこぼれている。俺は必死で説得する。

「お前、もう忘れたのか!俺達がまだ、高校三年の時、あの辺で金髪のヤンキー軍団に遭遇して、タカリにあったじゃないか?まあ、俺もお前も、大してお金がなかったから何も取られなかったけど、また、あんな目に遭いたいのかよっ!」

と、高松の両肩を抑えたものの

「大丈夫、大丈夫だって!気にし過ぎだよ、加藤。相手は女なんだからさあ。ちょっと見るだけだよ。行って見ようよ」

 と、高松の欲望が理性を上回り、スタスタと一人で歩き出してしまった。俺も仕方なく、うな垂れながら高松の後を付いていくしかなかった。

 そして、その集団と遭遇する。

 確かに、金髪の三つ編みやら、茶髪のポニーテールの髪型をして、衣装もセーラーP-(自粛)の恰好をしているようだ。それが五人も揃って、女性らしからぬ、通称 ウ○コ座りをしているのだ。

 が、良く見るまでも無く、セーラー服風のハイレグスーツにミニスカート姿だが、白いタイツの隙間からカールしたすね毛が飛び出し、顔には濃い髭跡が残っている。顔面は誰が見ても、生物学上の区分から見ても、男で間違いない。
 
 俺と高松の顔が一瞬にして、引きったのは言うまでもない。しかし、その引き攣った顔を見られたらしく、金髪頭のセーラーP-がこちらを鋭く睨みつける。

「おぅっ!あんたら、アタイらに何か文句あんのぉー!」

 同時に他の四人も俺たちを見上げた。”おう”に”アタイら”って何なんだろうと思った。

「ああっ・・いえっ・・特に用事はありません」

思わず、五歩ほど後ずさりする俺たち。その態度に激昂げっこうしたのか、詰め寄ってくる金髪頭。

「何、逃げてんだよぉー!あんたら、アタイらを舐めてんじゃねぇよぉ!」

と、叫ぶ。その時、俺は思い出した。良く見たら、こいつらは以前、俺たちをタカったタカリ屋だったのだ。

もはや絶対絶命の俺たち。再び後ずさりした、その時だった。

 俺と高松の足の裏に、妙に柔らかな感触が伝わってきたのだ。俺と高松が、ゆっくりと下を見ると、見慣れた犬のカリントウが俺たちの靴の下にある。

「うわっ!踏んじゃったっ!」

 高松が思わず叫んだので、
「うわっ!俺も!」

 と、俺も釣られて慌てた。

「ああ、また、ウ○コ踏んじゃったよっ!」

 高松が二回も叫んだので、先ほどまで凄んでいたセーラーS達も茫然《ぼうぜん》となり、そして、大爆笑が起こった。

「わははっ・・。君たち、大丈夫かっ?!わははっ・・」

「だ、大丈夫です。は、はははっ・・」

と、苦笑いを残し、俺たちは逃げるように、その場を立ち去った。そのあとに残されたセーラーP-たちは大爆笑して、地面を転げまわっていた。

 俺たちは傷心を抱え、脇道に隠れると、揃って縁石に靴の裏を擦りつけた。悔しさと切なさと心苦しさと・・。どっかの歌詞のようにみじめな感慨を覚えたのである。

 一日二回も犬の糞を踏む高松。しかし、俺まで一緒にそのてつを踏む羽目はめになるとは予想もしなかった。しかも、元ヤンキーでタカリ屋のセーラーP-モドキにまで心配され、大爆笑される始末。

 そして、その事件以降、高松はセーラーP-の同人誌を描くことを止めたのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?