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あの空とにおいと熱気

生まれは沖縄、育ちは内地。両親共に沖縄出身で私も沖縄で生まれだけど、1歳の時父の仕事の都合で千葉に引っ越した。それから中学卒業の14歳まで日本各地を転々とした。高校進学と同時に沖縄に戻ったけど、大学は東京の大学に進学しそのまま十数年東京に居続けている。

初対面の人に自己紹介で、沖縄出身だけど育ちはこっちで、と言うと「エセ沖縄人だ」と言われることがある。分からんでもないけど許せない。他人から出自についてとやかく言われるのが嫌だったが、自分自身沖縄への地元意識を強くは持てず、かと言って内地に地元意識を持てるはずもなかった(3〜4年単位で転々としていたので尚更だ)。アイデンティティがはっきりしないことに、昔は疎外感を感じていたしコンプレックスだった。

2月の都心でも雪が降って積もりすごく寒かった日、小学生の頃の夏休みの夢をみた。小学生の頃は毎年沖縄に帰り母の実家がある北谷町の祖父母の家に1か月ほど泊まっていた。北谷には嘉手納飛行場という沖縄で一番大きい米軍基地があり、アメリカンな飲食店やスーパー、家具屋、タトゥーショップや誰が着るの?というくらい派手なドレスがショーウィンドウに並ぶお店、クラブなんかも多くあり、アメリカ文化を身近に感じる街だ。街には米兵がいたり、アメリカナンバーの車も普通に走ってる。異国情緒があって私は昔から好きだ。基地周りの広い道路、道路沿いのヤシの木の緑が真っ青な空によく映える。コンクリートの熱気の独特なにおい。

北谷にいる時は叔母がよく面倒を見てくれて、よく安良波ビーチに連れて行ってくれた。私が子供の頃は夏休みのビーチは私たちみたいな夏休み真っ只中の子供とその保護者、上裸でランニングするアメリカ人と上裸で寝てるおじいしかいなかった。今だと観光客の方が多いか。
朝からお昼過ぎまで海で遊び、休憩してる時に叔母が作ってくれた塩おにぎりを食べた。あれが本当に美味しくて今でも私の好きな食べ物は塩おにぎりだ。お昼過ぎ、叔母と母がお腹が空いたと言い出すので、安良波ビーチの隣のハンビータウンの和風亭で遅い昼をとるのが定番だった。叔母と母は確か天ぷら御膳、私と妹はお寿司御膳と決まっていた。海で泳いだ後のお寿司は最高だった。

夕飯の買い出しをして帰る頃には夕方になっていた。夕暮れでも夏の沖縄の日差しは強烈だ。祖父母の家に着き、祖母と叔母と母、集まってきた親戚の叔母さんたちはお喋りをしながら夕飯の支度をしていた。私と妹は祖父母の家の屋上でよく遊んだ。沖縄の一軒家は家の屋上に雨水を貯めるタンクがあるため屋上がある家が多い(と昔聞いた気がする)。屋上から見える空はどこから見る空よりも広くて開放感を感じた。日中日差しを浴び続けたコンクリートの地面はあったかかった。赤く染まる空、コンクリートの熱気、そよそよと吹くぬるい風、5時を知らせる地域放送、屋上に登る時に触った階段の手摺りの鉄のにおい、鉄錆がついた私の手。
叔母が夕飯だから降りてこいと下から私たちを呼ぶ。その日祖父母の家に集まった親戚達と一緒に夕飯を食べる。私は祖母のなーべーらー味噌汁が大好きだった。従姉妹の姉がたまになーべーらーの味噌汁に食卓塩をちょっとふりかけていた気がする。スパムも入っているので私には十分な塩気だった。普段内地にいる時は家族4人での夕飯だったので親戚が集まりみんなでワイワイご飯を食べるのが嬉しい反面どう振る舞えば良いか分からずぎこちなくソワソワしていた。

人生で戻れるとしたらいつが良い?という質問をされたら、迷わずあの頃の夏休みの一日と答える。
私の"沖縄"を形成したあの頃。沖縄に帰りたいと思わせるのはあの夏休みの日々があったからだ。自由で美しかった。

大人になって沖縄に帰り北谷に行く道すがら、変わらないあの空を見て、祖父母の家に着き車から降りた時に変わらない熱気とにおいを感じると、地元に帰ってきたと実感する。

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