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尾形百之助が求めた「祝福」とはなんだったのか?

ゴールデンカムイの登場人物尾形百之助
彼は度々作中を通して「祝福」について言及するキャラクターであり、己が祝福されたか否かを全力で証明するためだけに金塊戦争に身を投じたような人物である。しかし、最後まで彼が「祝福」と呼んだものが具体的に何を表すのかはっきりした回答は示されていない。このnoteでは尾形百之助にとっての「祝福」とは何かを考察する。


・衝撃の310話「勇作だけがおれを愛してくれたから」


ここを読むような読者の方には説明不要と思われる310話内の尾形の告白「勇作だけが俺を愛してくれたから」。連載当時、それはとんでもない衝撃を与えた言葉だった。
第103話「あんこう鍋」で「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものですが」と言っていた男が「勇作だけが俺を愛してくれたから」と言っている。何なんだお前、それはつまり弟は俺にとって神に等しい存在だといっているのか?愛も神も尾形にとってはあやふやなものなのに、勇作からだけはその「愛」というものを確かに感じていたと告白している。何故それほどまでに弟だけは特別なのか。

・なぜ勇作だけが他の「愛」とは違ったのか


作中で尾形に「愛」を向けたのは少なくとも勇作だけではなかった。思い当たるだけでも母親、祖父母、そして鶴見中尉は何かしらの「愛」は向けていたはずだ。

母は心を病んでいたが食事を用意し子守唄を歌っていたし、あんこう鍋に息子が嫌いなしいたけを入れなかった。祖父母は母亡き後も尾形を養育していたし、祖母は毎日飯の支度をしてくれていた。尾形自身も「婆ちゃん子」を自称している程度に祖母に対する親愛はあったはずだ。そして、鶴見中尉の愛です劇場にも303話で「あなたがキョロキョロよそ見ばかりするからでしょうが!!!」というくらいの執着は示されていた。

では、彼らの愛と勇作が尾形に与えていた「愛」は何が違ったのか?



それは「条件付きの愛」と「無償の愛」の違いである。

尾形の母親「トメ」は確かに息子を愛していた。それは作中の尾形の記憶を通して度々示されている。彼女は精神を病みつつも息子に手を上げたり育児放棄をしている様子は見られないし、上記のように調子が良い日には食事を作り子守唄で息子を寝かしつける母親の役割も果たしている。尾形自身もこうした思い出は母との温かい記憶として回想している。

ただし、彼女が作るあんこう鍋は尾形の好物である前に父・花沢幸二郎の好物だった。そして尾形が何度鴨を撃ち落としても母は鴨鍋を作らずあんこう鍋を作り続ける。また息子のために唄う子守唄の最後に彼女は「お父っつまのような立派な将校さんになりなさいね」と言ってしまう。きっと彼女に悪気はなく、息子への愛も本物である。ただ物心ついた時から敏い子供だった尾形は、自分に向けた母のそうした行為の向こうに父の姿が重ねられていたことに気付いていた。おそらく自分に向けられた母の愛に「愛する幸二郎」の面影という「条件」が付与されていたことを見抜いていただろう。

祖父母、特に祖母については母以上に簡単に推測できるが尾形は一般家庭の孫とは立場が違っただろう。元芸者で将校の妾だった未婚の母の産んだ子だ。その上尾形の父がトメを捨てたせいで娘は病んでしまった。子供に罪はないとわかっていても、娘を捨てた男の面影を強く残す孫に複雑な想いがあったのは想像に難くない。
祖父母もきちんと尾形を養育しているが、そこには一般家庭の孫とは違う関係があったと考えられる。尾形自身も父と再会させるために母親を殺鼠剤で殺すような行いをした子供だ。祖父母が尾形の犯行に気付いたとは思わないが、おそらく世間でいう普通の子供とは違うことくらい勘付いていただろう。そうなると祖父母から尾形に向けられた「愛」はおそらく「娘の置き土産としての孫」という「条件」が付与されていたはずだ。責任感と言い換えてもいいかもしれない。少なくともドラえもんののび太とおばあちゃんのような無条件で孫のすべてを肯定してくれる関係とは違っただろう。

そして鶴見中尉。こちらは単純に「軍神の息子としての尾形百之助」という明確な条件付きの「愛」しか与えられていない。制御しやすい花沢中将か勇作少尉の代用品扱いに等しいだろう。彼は尾形の身内でもないのでその扱いははっきりとしている。彼にとって尾形は有用な駒になりうるからこそ手元に置き愛している。尾形本人もそれを重々わかっているので「キョロキョロしないで俺のために働け」という愛着ではない執着心丸出しである。

このような「条件付きの愛」の中でただ一人勇作だけが「無償の愛」、つまり無条件に尾形を肯定し尾形本人を見て愛を注いでいた。
兵営で尾形に会うときも規律が乱れるのにわざわざ彼を「兄様」と呼ぶ。
そもそも妾の子で山猫と嫌われている尾形に正妻の息子で人望も厚い勇作が絡んでも対外的なメリットは殆どないだろう。また、勇作に兄弟への憧れがありその理想の兄を尾形に投影していた…という偶像崇拝じみた交流しかなかったならば、きっと遊郭で尾形の悪い遊びに乗らなかった時に関係は途絶えていたのではないだろうか。実際はその後も規律を破っても夜中兄と戦場に出歩いている(兄の呼び出しに応じている)し、罪悪感がないと語る尾形を涙ながらに抱きしめて「兄様はそんな人じゃない」と諭している。
「兄様はそんな人じゃない」を勇作が考える「理想の兄」とのズレと捉えられなくもないが、遊郭での一件があった後にまだ勇作が内心の「理想の兄」を尾形に見ているとは考えにくい。何より、「理想の兄」と「現実の兄」のズレを泣いて否定するなんてオタクみたいなことを高潔な勇作殿がするだろうか。
203高地のあの時の勇作は「理想の兄」ではなく他の誰でもない「尾形百之助」本人を心から「兄様はそんな人(罪悪感の無い人間)じゃない」と想って泣いている。勇作自身は嘘偽りなく本心から尾形の人間性を肯定しようと諭していたはずだ。
様々な人が尾形に尾形以外の誰かや何かを投影する中で、勇作だけがありのままに自分の兄である尾形百之助を見つめ肯定し愛そうとしていた。
これが尾形にとってただ一つ他とは違う「勇作だけが俺を愛してくれたから」と語っていた「愛」である。

・花沢勇作と鯉登音之進、そしてアシリパ


ゴールデンカムイの作中で尾形が勇作の「愛」と呼んだのと同じものを他者に与えている人物が2人いる。鯉登音之進少尉とアシリパだ。

鯉登少尉は当初鶴見中尉の「甘い嘘」にすっかり心酔していたが、樺太で月島との一件(幼少期の誘拐の真実を知った時)があった後は鶴見中尉と距離を置き、より広い目線で部下達を気にかけるようになっている。鶴見中尉が部下達を鼓舞し、演技で魅了し自分の計画に利用しているのに対して、鯉登少尉は何より自分に付き従っている部下の安否を第一に考えるようになっていく。
それはとりわけ月島基との関係で強化されていった。月島はその境遇だけを見れば尾形以上に悲惨かつどす黒い闇を抱えた人物だが、道をあやまりかけるたびに鯉登に救われている。谷垣夫妻を殺そうとした時も、牛山辰馬に自滅覚悟の特攻を仕掛けた時も、鶴見の下に行こうと満身創痍で立ち上がった時も、すべて鯉登の言葉と行動で命拾いしている。
より重要なのは、この時鯉登は常に何の見返りもなく月島を助けている事である。鯉登が月島を救おうとする時、それをしたところで彼に特段メリットはなく、月島に対して忠誠を誓わせるような見返りも求めない。彼が月島を助けるとき、そこにはいつも「自分の大切な部下である」という事実だけがあり、上官として部下を守る、無駄死にさせないという気持ちだけが原動力になっている。
月島が全身浸かりきって抜け出せなかった鶴見の「相手の心を試す愛」から無理矢理彼を引き上げたのは鯉登の何の嘘も計略もない部下への真っ直ぐな「愛」、与えることで見返りを期待するのではない、ひたすら与える「愛」だった。
月島が道を外れながらも何とか踏みとどまったのは樺太のあの夜や谷垣を追い詰めた時に鯉登を始末せず生かした結果だと思うし、月島と尾形の明暗を分けたのはやはり自分に無償の愛を向けてくれた人物を殺してしまったか否かなのだろう。

そしてもう一人他者に「愛」を与えていたのがアシリパである。
彼女も勇作と同じように他者に対して偏見を持たず、自分が感じたありのままにコミュニケーションをとる人物だ。不死身の杉元を恐れないし都丹のような囚人にも自分の感じたありのままの言葉を伝えている。そして勇作と同じように尾形に対して対等に接しようとした人物だ。彼女は杉元が尾形を信用しなくとも尾形がきちんと谷垣を逃がしたことに礼を言うし、周りが尾形を信用ならない人間として評価していてもその色眼鏡で尾形を見ようとはしなかった。
彼女は勇作と同じように、誰かの面影や評価を重ねず、ただありのままの尾形を見ようとしていた数少ない人物なのだ。
ただ、アシリパが特別に愛情を持っていた相手は杉元だった。杉元とアシリパは唯一無二の相棒同士で、勇作が尾形に向けたような親愛をアシリパが向ける先にいたのは常に杉元だった。杉元がいる限り、勇作が自身に向けたような親愛をアシリパから得ることはできない。それでは尾形にとって祝福を得たことにはならないだろう。樺太で「やはり俺ではだめか」と言っているように、尾形は杉元のごとくアシリパから信頼されることを望んでいたが、結局裏切りで築き上げようとした信頼は水泡に帰した。尾形が網走で杉元を排除したのはアシリパから勇作と同じものを得るために邪魔だったからだし、尾形がアシリパに執着したのも勇作と同じく無償の愛を与えうる「清い」存在だったからだ。

・尾形百之助が求めた「祝福」



尾形百之助が心から焦がれ、求め、そして全力で否定した「祝福」とは、「山猫」でも「軍神の息子」でも「お父っつぁまのような将校さん」でもない、ほかの誰でもないただの尾形百之助を肯定してくれる「無償の愛」のことだった。そして、彼は最後の最期に最も焦がれた相手から「兄様は祝福されて生まれた子供です」と、確かに与えられていたそれ(=無償の愛)を受け取ったのだ。



余談
最後にまとめきれなかった事をいくつか。

「兄様は祝福されて生まれた子供です」とは勇作の言葉だが、これは勇作から与えられた祝福というよりは「兄様は(最初から無償の愛を得て)生まれた子供です」という確認のような意味だと思っている。愛の無い親から生まれた子である自分は何かが欠けているという尾形の考えに対するカウンターであるし、物心ついた頃にはすでに壊れていたけれど、確かに両親が愛し合った瞬間があったからこそ生まれ落ちた命だった。
もし両親のどちらかが尾形の存在を本当に疎ましく思っていたのなら、彼はそもそも生まれてくることは出来なかっただろう。出自を辿っても、金銭面を考えても「産まない」という選択肢だって存在したのである。
そういう意味でも、彼はやはり一瞬でも確かに望まれて生まれてきた子だったのだと思う。

鶴見に対する「たらしめが」について
尾形は長らく鶴見のたらし込み作戦が通用せず失敗した相手だと考えられてきた。
しかし、304話でのよそ見ばかりするからでしょうが!!発言でやっぱり尾形も鶴見に執着してたじゃないか!!と衝撃を受けたけれど、どうも彼は他の愛ですボーイズとは違う気がする。少なくとも、鶴見の与える飴(=第七師団長の肩書、学校への裏口入学など)には執着していたが、鶴見本人の「愛」には心酔していなかったように見える。宇佐美は信者だし鯉登も真実を知るまでは心酔していた。月島の場合は死刑から解放された恩義と、演技と理解しても命がけで共に戦った情もあって最後まで鶴見と手を切れなかった。
その点尾形はそこまで鶴見に私情からの思い入れはなさそうだし(勇作やアシリパのような執着がない)、むしろ利己的な理由から自分のために働いてほしくて鶴見の邪魔をしているようだ。
尾形が最初から鶴見の甘言を「愛」ではなくたらしこみと看破できたのは以前から勇作殿をたらし込むために共に策を練ったり、鯉登誘拐のころからその手口を間近で見ていたこともあっただろう。ただ、やはり勇作と親交が深まってから本物の「無償の愛」がどういうものかを目の前で見せられて、理解したというのも大きかったのではないだろうか。鶴見中尉が誰かを心酔させようとする時、大抵何かしらの「愛」が不足しているか機能不全に陥ってるときを見計らっている。(宇佐美は例外)
鯉登父子はまさに親子関係の隙を突かれているし月島はいご草ちゃんへの気持ちを利用されている。尾形の場合も父への愛憎を利用しようとしたのではないだろうか。
しかし、尾形の時は父を殺す前に勇作と親交があり、尾形も心の底では勇作が与えるようなものが本当の愛情だと理解していた。そして、皮肉なことにそれは勇作を殺し勇作が不在になったことでより強く意識されたのではないだろうか。
「無償の愛」を理解した尾形にとって鶴見中尉の甘言はどんなに魅力的でもやはり甘言でしかないことがわかってしまったからこそ、「たらしめが」という本音が出たのではないだろうか。また、甘い嘘に浸っていた月島も後に覚醒した鯉登の真っ直ぐな愛を目の前にしてから徐々に鶴見中尉の陰から抜け出している。
鶴見中尉の「甘い嘘」でできた「愛」は結局のところ何の打算もない「本物の愛」の前では悲しいくらい無力化してしまうものなのだと思う。

そして、尾形がそれに気付くのが勇作を殺し弟の全てを失った後だったというのも、最高に皮肉である。

※もう何度も書くのめんどくさいけど上述の全てに対し宇佐美は例外です。宇佐美だけは本物だからです。

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