2023/10/05

2023/10/05

 その場から逃げ出したくなるのにいざ逃げ出してみると安堵よりも焦燥感がまさってしまうので、職場と喫茶店を行ったり来たりしているものの往復を繰り返すたびに不安が増大して夕方にはどうしようもなくなる。モーターみたい。ひとところに留まれず脳内は回転し続ける。S極とN極がある。
 ドトールで仕事を片付けようと思ったのに何から手をつけていいのかわからなくなってしまった。だからやっぱり会社に戻ってやろうと思うけれど、会社に戻ったら戻ったできっと理由をつけてやっぱりここではダメだとなってどこかへ移動するのだろう。移動した分だけ理由が溜まっていって追い詰められるとわかっていても私は何度も何度も逃げ出してしまう。
 動悸が激しくなってきたので抗不安薬を飲み、iQOSを手に取ると充電がない。こういうときの感情は無に近い。
 神保町のドトールのiQOSルームは、喫煙のためだけに来ている人が多いのか、みなiQOSを2、3本吸うとコーヒーを一気飲みして出ていく。私のようにパソコンを開いて長居しようとする人は片手で数えるほどで、人の出入りがせわしない。喫煙の口実のために入れられてろくに味わわれず飲み干されるコーヒーたちはどんな気持ちなんだろう。私はそんなことをよく考えてしまう。たとえばワカサギ。父と弟がワカサギ釣りをするといって勇んで山梨まで出かけて行ったものの、ほんの5匹しか釣れなかったことがあった。しかもその5匹はみな小さかった。ただでさえ小さい魚なのに、さらに小さいわけだから、ろくに味もしない。気の毒に思った母が5匹だけのために油を溜めて唐揚げにしてくれたが、皿の上のたった5匹という事実が余計に侘しかった。ワカサギは湖でのびのび生きていたのに釣られて、唐揚げにされ、そのあげく美味しいとも言われずありがたがられることもなくその生涯を終えた。私は心底ワカサギに同情した。せっかく釣られたなら楽しい食卓がよかっただろうに。
 せかせかと飲み干されたコーヒーたちももしかしたら腹の中でがっかりしているかもしれない。せっかく淹れられたのに、誰も味わってくれないと。そうやって想像すると今度は、コーヒーに人格があるとしてそれは一杯ずつ淹れられたときに誕生するのか、などと考えてしまう。2リットルくらい作り置きされているアイスコーヒーは一杯ずつ注がれるたびに意識が分裂するのか? 
 それは私の妄想に過ぎない。コーヒーもワカサギも自分の人生の終え方を嘆いたりはしない。羨ましいと思った。私は毎日苦しんでいて、せっかく生まれてきたのに自分の人生を無駄にしているような気がしてならない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?